・・・て一安神していると、間もなく、ふいに思わぬところから火の手がせまって来たりして、せっかくもち出したものもそのままほうってにげ出す間もなく、こんどは、ぎゃくにまっ向うから火の子がふりかぶさって来るという調子で、あっちへ、こっちへと、いくどもに・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・それでも末弟は、得意である。調子が出て来た、と内心ほくほくしている。「やたらに煩瑣で、そうして定理ばかり氾濫して、いままでの数学は、完全に行きづまっている。一つの暗記物に堕してしまった。このとき、数学の自由性を叫んで敢然立ったのは、いまのそ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・やはりそうか、と自分でひとり首肯き、うわべは何気なく、お客にお銚子を運びました。 その日は、クリスマスの、前夜祭とかいうのに当っていたようで、そのせいか、お客が絶えること無く、次々と参りまして、私は朝からほとんど何一つ戴いておらなかった・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・二本目のお銚子にとりかかった時、どういう風の吹き廻しか、ふいと坂田藤十郎の事が思い浮んだのです。芸に行きづまり一夜いつわりの恋をしかけて、やっとインスピレエションを得た。わるい事だが、芸のためには、やむを得まい。私も実行しよう。すぐに屹っと・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・それ、この瓶は戸棚に隠せ、まだ二目盛残ってあるんだ、あすとあさってのぶんだ、この銚子にもまだ三猪口ぶんくらい残っているが、これは寝酒にするんだから、銚子はこのまま、このまま、さわってはいけない、風呂敷でもかぶせて置け、さて、手抜かりは無いか・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・そこへ竜騎兵中尉が這入って来て、平生の無頓着な、傲慢な調子でこう云った。「諸君のうちで誰か世界を一周して来る気はありませんか。」 ただこれだけで、跡はなんにも言わない。青天の霹靂である。一同暫くは茫然としていた。笑談だろうか。この貴・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・蟋蟀は同じやさしいさびしい調子で鳴いている。満洲の広漠たる野には、遅い月が昇ったと見えて、あたりが明るくなって、ガラス窓の外は既にその光を受けていた。 叫喚、悲鳴、絶望、渠は室の中をのたうちまわった。軍服のボタンは外れ、胸の辺はかきむし・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ しかしそのような排列のあらゆる可能な変化のうちで、何かしらだらしなく見えるのと、どこか格好よく調子よく見えるものとの区別がありはしないか。これはむつかしい問題ではあるが、そういう区別があるとしないとある種の未来派の絵などの存在理由は消・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
・・・その以前から長姉の片付いていたB家が三軒置いた隣りにあって、そこには自分より一つ年上の甥が居たから、自分の幼時の多くの記憶はこの姉の家と自宅との間の往復につながっている。それと、もう一つ、宅の門脇の長屋に住んでいた重兵衛さんの一家との交渉が・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・蜂の毒の恐ろしい事を学んだ長子等は何も知らない幼い子にいろんな事を云って警めたりおどしたりした。自分は子供の時に蜂を怒らせて耳たぶを刺され、さんしちの葉をもんですりつけた事を想い出したりした。あの時分はアンモニア水を塗るというような事は誰も・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
出典:青空文庫