・・・忽然、かれはその前に驚くべき長大なる自己の影を見た。肩の銃の影は遠い野の草の上にあった。かれは急に深い悲哀に打たれた。 草叢には虫の声がする。故郷の野で聞く虫の声とは似もつかぬ。この似つかぬことと広い野原とがなんとなくその胸を痛めた。一・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・四十ペンニヒ頂戴いたしたいと申しておりました。」「そんなら出しておいてくれい。あとで一しょに勘定して貰うから。」 襟は丁寧に包んで、紐でしっかり縛ってある。おれはそれを提げて、来合せた電車に乗って、二分間ほどすると下りた。「旦那・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・ 昔ある国での話であるが、天文の学生が怠けて星の観測簿を偽造して先生に差出したら忽ち見破られてひどくお眼玉を頂戴した。実際一晩の観測簿を尤もらしく偽造するための労力は十晩百晩の観測の労力よりも大きいものだろうと想像されるのである。・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・田崎が事の次第を聞付けて父に密告したので、お悦は可哀そうに、馬鹿をするにも程があるとて、厳しいお小言を頂戴した始末。私の乳母は母上と相談して、当らず触らず、出入りの魚屋「いろは」から犬を貰って飼い、猶時々は油揚をば、崖の熊笹の中へ捨てて置い・・・ 永井荷風 「狐」
・・・余が修善寺で生死の間に迷うほどの心細い病み方をしていた時、池辺君は例の通りの長大な躯幹を東京から運んで来て、余の枕辺に坐った。そうして苦い顔をしながら、医者に騙されて来て見たと云った。医者に騙されたという彼は、固より余を騙すつもりでこういう・・・ 夏目漱石 「三山居士」
・・・やむをえずこの旨を神さんに届け出ると、可愛想にペンは大変御小言を頂戴した。御客様にそんなぶしつけな方があるものか以後はたしなむが善かろうときめつけられた。それから従順なるペンはけっして我輩に口をきかない。ただし口をきかないのは妻君の内にいる・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・彼女の眼は「何でもいいからそうっとしといて頂戴ね」と言ってるようだった。 私は義憤を感じた。こんな状態の女を搾取材料にしている三人の蛞蝓共を、「叩き壊してやろう」と決心した。「誰かがひどくしたのかね。誰かに苛められたの」私は入口の方・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 九「善さん、も一つ頂戴しようじゃアありませんか」と、吉里はわざとながらにッこり笑ッた。 善吉はしばらく言うところを知らなかッた。「吉里さん、献げるよ、献げるよ、私しゃこれでもうたくさんだ。もう思い残すことも・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・「陽ちゃんがいらしたから紅茶入れて頂戴」「はい」「ああでしょ? だから私時々堪まらなくなっちゃうの、一日まるっきり口を利かないで御飯をたべることがよくあるのよ」 ふき子はお対手兼家政婦の岡本が引込んでいる裏座敷の方を悩ましそ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・毎年卒業式の時、側で見ていますが、お時計を頂戴しに出て来る優等生は、大抵秀麿さんのような顔をしていて、卒倒でもしなければ好いと思う位です。も少しで神経衰弱になると云うところで、ならずに済んでいるのです。卒業さえしてしまえば直ります。」 ・・・ 森鴎外 「かのように」
出典:青空文庫