・・・少女は頭を上げてちょっと見上げたが、其儘すぐ一軒置た隣家の二階に目を注いだ。 隣家の二階というのは、見た処、極く軒の低い家で、下の屋根と上の屋根との間に、一間の中窓が窮屈そうに挾まっている、其窓先に軒がさも鬱陶しく垂れて、陰気な影を窓の・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・「一寸、待っちょれ!」 杜氏はまた主屋の方へ行った。ところが、今度は、なかなか帰って来なかった。障子の破れから寒い風が砂を吹きこんできた。ひどい西風だった。南の鉄格子の窓に映っている弱い日かげが冬至に近いことを思わせた。彼は、正月の・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・太い、しっかりした腕に、娘はぶら下って、ちょか/\早足に踵の高い靴をかわした。「馭者! 馭者!」 ころげそうになる娘を支えて、アメリカ兵は靴のつまさきに注意を集中して丘を下った。娘の外套は、メリケン兵の膝頭でひら/\ひるがえった。街・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 豪胆で殺伐なことが好きで、よく銃剣を振るって、露西亜人を斬りつけ、相手がない時には、野にさまよっている牛や豚を突き殺して、面白がっていた、鼻の下に、ちょんびり髭を置いている屋島という男があった。「こういうこた、内地へ帰っちゃとても・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・と呼びかけて亭主のいうに、ちょっと振りかえって嬉しそうに莞爾笑い、「いいよ、黙って待っておいで。 たちまち姿は見えずなって、四五軒先の鍛冶屋が鎚の音ばかりトンケンコン、トンケンコンと残る。亭主はちょっと考えしが、「ハテナ、近・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・王子はびっくりして、「ほほう、これはちょうほうな男だ。どうです、きょうから私のお供になってくれませんか。私もちょうど、お前さんと同じように、仕合せをさがして歩いているのだから。」と、聞いて見ました。するとぶくぶくはよろこんで、「どう・・・ 鈴木三重吉 「ぶくぶく長々火の目小僧」
・・・ぼれの文人もまた奇妙な春にめぐり合いました次第で、いや、本当に、気取ってみたところで仕様がございません、私は十七の時から三十数年間、ただもう東京のあちこちでうろうろして、そうしておのずから老い疲れて、ちょうど今から十年前に、この田舎の弟の家・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・銭湯から私の家まで、歩いて五分もかかりませぬし、ちょっとその間に、お乳の下から腹にかけて手のひら二つぶんのひろさでもって、真赤に熟れて苺みたいになっているので、私は地獄絵を見たような気がして、すっとあたりが暗くなりました。そのときから、私は・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・と女は態とらしからぬ様ながらちょと笑う。やがて朱塗の団扇の柄にて、乱れかかる頬の黒髪をうるさしとばかり払えば、柄の先につけたる紫のふさが波を打って、緑り濃き香油の薫りの中に躍り入る。「我に贈れ」と髯なき人が、すぐ言い添えてまたからからと・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・朝に向い夕に向い、日に向い月に向いて、厭くちょう事のあるをさえ忘れたるシャロットの女の眼には、霧立つ事も、露置く事もあらざれば、まして裂けんとする虞ありとは夢にだも知らず。湛然として音なき秋の水に臨むが如く、瑩朗たる面を過ぐる森羅の影の、繽・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫