一 ぶらりと両手を垂げたまま、圭さんがどこからか帰って来る。「どこへ行ったね」「ちょっと、町を歩行いて来た」「何か観るものがあるかい」「寺が一軒あった」「それから」「銀杏の樹が・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・静かな影がちょと動いて、又元に還る。ウィリアムは茫然として佇ずむ。「まこととは思い詰めたる心の影を。心の影を偽りと云うが偽り」女静かに歌いやんで、ウィリアムの方を顧みる。ウィリアムは瞬きもせず女の顔を打ち守る。「恋に口惜しき命の占を・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・と言えば山嶮しからず、「ぜっちょう」と言えば山嶮しく感ぜらる。 漢語を用いていかめしくしたる句蚊遣してまゐらす僧の座右かな売卜先生木の下闇の訪はれ顔「座右」の語は僧に対する多少の尊敬を表わし、「売卜先生」と言えば「卜・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・まだ無礼な事申しちょるか。恐れ入りました。見受ける処がよほど酩酊のようじゃが内には女房も待っちょるだろうから早う帰ってはどじゃろうかい。有り難うございます。………世の中に何が有難いッてお廻りさん位有難い者はないよ。こんな寒い晩でも何でもチャ・・・ 正岡子規 「煩悶」
・・・くそっ。ちょっ。」 会長さんはまっかになってどなりました。みんなはびっくりしてぱくぱく会長さんの袖を引っぱって無理に座らせました。 すると山男は面倒臭そうにふところから手を出して立ちあがりました。「ええ一寸一言ご挨拶を申し上げます。・・・ 宮沢賢治 「紫紺染について」
・・・林町の父は、この頃ちょくちょく旅行に出かけ用事なのですが、正月には御木本真珠を見に山田へ行った話、まだ申しませんでしたね。御木本さんは元ウドンやだったそうで、その頃使った臼が故郷の山にしめを張って飾ってある由。そして先頃赤しおで真珠をやられ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・春先、まだ紫陽花の花が開かず、鮮やかな萌黄の丸い芽生であった頃、青桐も浅い肉桂色のにこげに包まれた幼葉を瑞々しい枝の先から、ちょぽり、ちょぽりと見せていた。 浅春という感じに満ちて庭を彼方此方、歩き廻りながら日を浴び、若芽を眺めるのは、・・・ 宮本百合子 「透き徹る秋」
・・・○栗山の婆さん「自殺すると云っちょるげな、息子に話しもめるさかい と云っちょる」 宮本百合子 「Sketches for details Shima」
・・・斯うささやく心のどこかにほんのちょっぴり今までにない不安さがある。 私はあの人を女優とは云わせたくなく、又自分からも云いたくない。 女優――斯う云う言葉の中に何とはなしに私にはいやにひびく音がまじって居る。 女役者と云う方が私は・・・ 宮本百合子 「つぼみ」
・・・ 話の間だがちょッとここで忍藻の性質や身の上がやや詳細に述べられなくてはならない。実に忍藻はこの老女の実子で、父親は秩父民部とて前回武蔵野を旅行していた旅人の中の年を取った方だ。そして旅人の若い方はすなわち世良田三郎で、母親の話でも大抵・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫