・・・あらわれ出したのは、今からふた月ほど前、近郊の地が開けて、新しい家作がかなたの森の角、こなたの丘の上にでき上がって、某少将の邸宅、某会社重役の邸宅などの大きな構えが、武蔵野のなごりの櫟の大並木の間からちらちらと画のように見えるころであったが・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・庭の木々のこずえには小鳥の影がちらちらする。二匹の猫があちらこちらに首を曲げたり耳を動かしたりするのが、まるで申し合わせたようにほとんど同時に同一の挙動をする。ちょうど時計じかけで拍子を合わせた二つの器械のように見える。それが、どうかした拍・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・この茶わんを、縁側の日向へ持ち出して、日光を湯げにあて、向こう側に黒い布でもおいてすかして見ると、滴の、粒の大きいのはちらちらと目に見えます。場合により、粒があまり大きくないときには、日光にすかして見ると、湯げの中に、虹のような、赤や青の色・・・ 寺田寅彦 「茶わんの湯」
・・・大阪はもっともっと先に、微かに火のちらちらしている他ですがな」そう言って彼はまた右手の方を指しながら、「あれが和田岬です」「尼ヶ崎から、あすこへ軍兵の押し寄せてくるのが見えるかしら」私は尼ヶ崎の段を思いだしながら言った。「あれが・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・すかして見ると明け放ちたる座敷の灯さえちらちら見える。「どうかな」と一人が云うと「人並じゃ」と一人が答える。女ばかりは黙っている。「わしのはこうじゃ」と話しがまた元へ返る。火をつけ直した蚊遣の煙が、筒に穿てる三つの穴を洩れて三つの煙とな・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・「一夜の後たぎりたる脳の漸く平らぎて、静かなる昔の影のちらちらと心に映る頃、ランスロットはわれに去れという。心許さぬ隠士は去るなという。とかくして二日を経たり。三日目の朝、われと隠士の眠覚めて、病む人の顔色の、今朝如何あらんと臥所を窺え・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・けれども景色が余り広いと写実に遠ざかるから今少し狭く細かく写そうと思うて、月が木葉がくれにちらちらして居る所、即ち作者は森の影を踏んでちらちらする葉隠れの月を右に見ながら、いくら往ても往ても月は葉隠れになったままであって自分の顔をかっと照す・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・ 私はまた足もとの砂を見ましたらその砂粒の中にも黄いろや青や小さな火がちらちらまたたいているのでした。恐らくはそのツェラ高原の過冷却湖畔も天の銀河の一部と思われました。 けれどもこの時は早くも高原の夜は明けるらしかったのです。 ・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・彼方側を歩いているさほ子の顔は見えず、白い足袋ばかりがちらちら薄明りの中に動いて見えた。 十分ばかりも経った時、さほ子はやっと沈黙を破った。「それじゃ、私斯うするわ。ね、貴方はこれから何処かへ転地なさるのよ」「え? 誰が?」・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・そうして、彼の胸底からは古いジョセフィヌの愛がちらちらと光を上げた。彼はこの夜、そのまま皇后ルイザにも逢わず、ひとり怒りながら眠りについた。 ナポレオンの寝室では、寒水石の寝台が、ペルシャの鹿を浮かべた緋緞帳に囲まれて彼の寝顔を捧げてい・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫