・・・少し詳しく立止まって見たいと思う者があっても、大勢に追従して素通りをしてしまわなければならない。吾人が学校で学問を教わるのは丁度このようなものである。これはつまり大勢の人間に同時に大体を見せるためには最も適当で有効な方法には相違ない。しかし・・・ 寺田寅彦 「科学上における権威の価値と弊害」
子供の時代から現在までに自分等の受けた科学教育というものの全体を引くるめて追想してみた時に、そのうちの如何なるものが現在の自分等の中に最も多く生き残って最も強く活きて働いているかと考えてみると、それは教科書や講義のノートの・・・ 寺田寅彦 「雑感」
・・・久しく嗅がなかった匂であったために、今このアイスクリームの匂の刺戟によって飛び出した追想の矢が一と飛びに三十年前へ飛び越したのかもしれない。 不思議なことに、この一杯のアイスクリームの香味はその時の自分には何かしら清新にして予言的なもの・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・ ことによると、実は自分自身の中にも、そういうふうに外国人に追従を売るようなさもしい情け無い弱点があるのを、平素は自分で無理にごまかし押しかくしている。それを今眼前に暴露されるような気がして、思わずむっとして、そうして憂鬱になったのかも・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・たとえばまた、銀座松屋の南入り口をはいるといつでも感じられるある不思議なにおいは、どういうものか先年アンナ・パヴロワの舞踊を見に行ったその一夕の帝劇の観客席の一隅に自分の追想を誘うのである。 郷里の家に「ゴムの木」と称する灌木が一株あっ・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・ 幼時を追想する時には必ず想い出す重兵衛さんの一族の人々が、自分の内部生活に及ぼした影響と云ったようなことは、近頃までついぞ一度も考えてみたことはなかったのである。この頃になって、自分に親しかった、そうして自分の生涯に決定的な影響を及ぼ・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・ 古来邦画家は先人の画風を追従するにとどまって新機軸を出す人は誠に寥々たる晨星のごときものがあった。これらは皆知って疑わぬ人であったとも言われよう。疑って考えかつ自然について直接の師を求めた者にいたって始めて一新天地を開拓しているの観が・・・ 寺田寅彦 「知と疑い」
・・・それに対して自分は艶かしい意味においてしん橋の名を思出す時には、いつも明治の初年返咲きした第二の江戸を追想せねばならぬ。無論、実際よりもなお麗しくなお立派なものにして憬慕するのである。 現代の日本ほど時間の早く経過する国が世界中にあ・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・竜泉寺町 日本堤を行き尽して浄閑寺に至るあたりの風景は、三、四十年後の今日、これを追想すると、恍として前世を悟る思いがある。堤の上は大門近くとはちがって、小屋掛けの飲食店もなく、車夫もいず、人通りもなく、榎か何かの大木が立っていて、その・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・わたくしは言問橋や吾妻橋を渡るたびたび眉を顰め鼻を掩いながらも、むかしの追想を喜ぶあまり欄干に身を倚せて濁った水の流を眺めなければならない。水の流ほど見ているものに言い知れぬ空想の喜びを与えるものはない。薄く曇った風のない秋の日の夕暮近くは・・・ 永井荷風 「水のながれ」
出典:青空文庫