・・・踊ることをも忘れて、ついと行ってしまうのである。「おやまあ」と貴夫人が云った。 それでも褐色を帯びた、ブロンドな髪の、残酷な小娘の顔には深い美と未来の霊とがある。 慈悲深い貴夫人の顔は、それとは違って、風雨に晒された跡のように荒・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・ と膝を割って衝と手を突ッ込む、と水がさらさらと腕に搦んで、一来法師、さしつらりで、ついと退いた、影も溜らず。腕を伸ばしても届かぬ向こうで、くるりと廻る風して、澄ましてまた泳ぐ。「此奴」 と思わず呟いて苦笑した。「待てよ」・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ とついと立って、「五月雨の……と心持でも濡れましょう。池の菰に水まして、いずれが、あやめ杜若、さだかにそれと、よし原に、ほど遠からぬ水神へ……」 扇子をつかって、トントンと向うの段を、天井の巣へ、鳥のようにひらりと行く。 ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ と釣込まれたように、片袖を頬に当てて、取戻そうと差出す手から、ついと、あとじさりに離れた客は、手拭を人質のごとく、しかと取って、「気味の悪かったのは只今でしたな――この夜ふけに、しかも、ここから、唐突だろう。」 そのまま洗面所・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ 通り雨は一通り霽ったが、土は濡れて、冷くて、翡翠の影が駒下駄を辷ってまた映る……片褄端折に、乾物屋の軒を伝って、紅端緒の草履ではないが、ついと楽屋口へ行く状に、肩細く市場へ入ったのが、やがて、片手にビイルの壜、と見ると片手に持った・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ と叫んで、ついと退く、ト脛が白く、横町の暗に消えた。 坊様、眉も綿頭巾も、一緒くたに天を仰いで、長い顔で、きょとんとした。「や、いささかお灸でしたね、きゃッ、きゃッ、」 と笑うて、技師はこれを機会に、殷鑑遠からず、と少しく・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・どうぞおかまいなく、お引き取りを、と言うまでもなし……ついと尻を見せて、すたすたと廊下を行くのを、継児のような目つきで見ながら、抱き込むばかりに蓋を取ると、なるほど、二ぜんもり込みだけに汁がぽっちり、饂飩は白く乾いていた。 この旅館が、・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・小鳥は、娘の手とかごの入り口のところにすきまのあるのを発見しましたので、すばやく身をすぼめて、ついとそこから、外に逃げ出してしまいました。 小鳥は、まず屋根の上に止まりました。そして、これからどっちへ向かって逃げていったらいいかと、しば・・・ 小川未明 「めくら星」
・・・ ところが、あくる朝、店のものが戸をあけますと、犬は、もうとくから外へ来てまちうけていたように、ついと店へはいって、うれしそうに尾をふって肉屋のひざにとびつきました。「よし/\/\。分ったよ/\。」と肉屋は犬の両前足をにぎって、外の・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・ちかくの大きな花束をこしらえさせ、それを抱えて花屋から出て、何だかもじもじしていましたので、私には兄の気持が全部わかり、身を躍らしてその花束をひったくり脱兎の如くいま来た道を駈け戻り喫茶店の扉かげに、ついと隠れて、あの子を呼びました。「・・・ 太宰治 「兄たち」
出典:青空文庫