・・・一旦手附けたなら、決して、それを捨てないとも聞いている。幸い、私達は、みんなよく顔が人間に似ているばかりでなく、胴から上は全部人間そのままなのであるから――魚や獣物の世界でさえ、暮らされるところを見れば――その世界で暮らされないことはない。・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
・・・ そうさね……何だか異りきに聞えるじゃねえか、早く一人押ッ付けなきゃ寝覚めが悪いとでも言うのかい?」「おや、とんだ廻り気さ。私はね、お前さんが親類付合いとお言いだったから、それからふと考えたんだが……お前さんだってどうせ貰わなきゃならな・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・この時は、非常に息苦しくて、眼は開いているが、如何しても口が利けないし、声も出ないのだ、ただ女の膝、鼠地の縞物で、お召縮緬の着物と紫色の帯と、これだけが見えるばかり、そして恰も上から何か重い物に、圧え付けられるような具合に、何ともいえぬ苦し・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・その代り使いから帰ると食べすぎるというので、香の物は恐しくまずく漬けてある。香の物がまずいと、お粥も食べすぎないだろうという心の配り方です。しかし、これはその家だけの習慣ではなく、あとであちこち奉公してみて判ったのだが、これは船場一体のしき・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・途端に、満右衛門は頭を畳に付けて、「――田舎者の粗忽許して下され」 と、煮えくりかえる胸まで畳につけんばかりに、あやまった。 すると相手は、「――暫く其の儘で……」 と、満右衛門の天窓の上で咳などをして、そして、言うこと・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・日が照付けるぞ。と、眼を開けば、例の山査子に例の空、ただ白昼というだけの違い。おお、隣の人。ほい、敵の死骸だ! 何という大男! 待てよ、見覚があるぞ。矢張彼の男だ…… 現在俺の手に掛けた男が眼の前に踏反ッているのだ。何の恨が有っておれは・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・鮨でも漬けたように船に詰込れて君士但丁堡へ送付られるまでは、露西亜の事もバルガリヤの事も唯噂にも聞いたことなく、唯行けと云われたから来たのだ。若しも厭の何のと云おうものなら、笞の憂目を見るは愚かなこと、いずれかのパシャのピストルの弾を喰おう・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 彼は手を附けたらば、手の汗でその快よい光りが曇り、すぐにも錆が附きやしないかと恐るるかのように、そうっと注意深く鑵を引出して、見惚れたように眺め廻した。……と彼は、ハッとした態で、あぶなく鑵を取落しそうにした。そして忽ち今までの嬉しげ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・朝は大抵牛乳一合にパン四分の一斤位、バターを沢山付けて頂きます。その彼へスープ一合、黄卵三個、肝油球。昼はお粥にさしみ、ほうれん草の様なもの。午後四時の間食には果物、時には駿河屋の夜の梅だとか、風月堂の栗饅頭だとかの注文をします。夕食は朝が・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・七十を越した、兄の祖母で、勝子の曽祖母にあたるお祖母さんが、勝子を連れて川へ茶碗を漬けに行った。その川というのが急な川で、狭かったが底はかなり深かった。お祖母さんは、いつでも兄達が捨てておけというのに、姉が留守だったりすると、勝子などを抱き・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫