・・・一人の人間の髪の毛をつかんで、ずっぷり水へ漬け、息絶えなんとすると、外気へ引きずり出して空気を吸わせ、いくらか生気をとりもどして動きだすと見るや、たちまち、また髪を掴んで水へもぐらせる、拷問そっくりの生活の思いをさせた。 一九三二年の春・・・ 宮本百合子 「ある回想から」
・・・背中に小猿をくくり付けでもしたように、赤い着物の女の子が、小さく、かーんと強張って背負われて居るのだ。「河に身を投げたのだ」と誰かが云う声が聞える。自分は、泣き泣き机の下から出た。どうしてもその小さい赤い屍を背負った人の傍を通らなけ・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・それはなぜかと申しますと、女の方は家庭が仕事でございますので広い社会的な生活をいたしませんから、お婆さんは何十年となく漬物を漬けているから、菜葉はこれ位の塩をつけたらまず食べられるということをよく知っておりますが、若い人はもう少し科学的です・・・ 宮本百合子 「幸福の建設」
・・・「パンと牛乳買って貰いなさいよ」と云った。「漬けてなら食べられるから」「そうしようかしら――じゃ買って下さい」 看守は小机に頬杖をついたまま、「きかなけりゃ駄目だ」「今上で私につたえろと云ったんだから、いいんです・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・水道のところへ行って、自分たちの使った茶のみと、そこに漬けてあった二つ三つの皿小鉢を洗った。わきの窓から、建物だけ出来てまだ内部設備がされていない別の一棟が眺められた。その棟の空虚な窓々は、秋の午後に寂しく見えた。 ――しかし、思えば、・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・胡瓜の漬けかた、クワスの作りかた、赤坊のとりあげかたを誰にでも親切に教えてやるのも、この祖母さんなのであった。 祖父の家には、荷馬車屋、韃靼人の従卒、軍人と、お喋りで陽気なその細君などが間借りしていて、中庭では年じゅう叫ぶ声、笑う声、駈・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・はたきに附けてある紙ではたかずに、柄の先きではたくのである。木村はこれを「本能的掃除」と名づけた。鳩の卵を抱いているとき、卵と白墨の角をしたのと取り換えて置くと、やはりその白墨を抱いている。目的は余所になって、手段だけが実行せられる。塵を取・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・杯を出した。 小さい杯である。 どこの陶器か。火の坑から流れ出た熔巌の冷めたような色をしている。 七人の娘は飲んでしまった。杯を漬けた迹のコンサントリックな圏が泉の面に消えた。 凸面をなして、盛り上げたようになっている泉の面・・・ 森鴎外 「杯」
・・・いつも漬物を切らすので、あの日には茄子と胡瓜を沢山に漬けて置けと云ったのだ。」「それじゃあ自分の内へも沢山漬けたのだろう。」「はははは。しかしとにかく難有う。奥さんにも宜しく云ってくれ給え。」 話しながら京町の入口まで来たが、石・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・所謂閼伽桶の中には、番茶が麻の嚢に入れて漬けてあったのである。 この時玄関で見掛けた、世話人らしい男の一人が、座敷の真ん中に据わって「一寸皆様に申し上げます」と冒頭を置いて、口上めいた挨拶をした。段々準備が手おくれになって済まないが、並・・・ 森鴎外 「百物語」
出典:青空文庫