・・・その羽に紐が附けてあって、紐の端がポッケットに入れてある。その紐を引くと、頭の上で蝋燭を立てたように羽が立つ。それを見ては誰だって笑わずにはいられない。この男にこの場所で小さい女中は心安くなって、半日一しょに暮らした。さて午後十一時になって・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ら本磨ぎに磨ぎ上げた南部鉄の矢の根を五十筋、おのおのへ二十五筋、のう門出の祝いと差し出して、忍藻聞けよ――『二方の中のどなたでも前櫓で敵を引き受けなさるならこの矢の根に鼻油引いて、兜の金具の目ぼしいを附けおるを打ち止めなされよ。また殿で敵に・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・もしわれわれがそうして社会主義を認めたならば、社会主義をかくも歴史の新しい事実として勢力付けた唯物論をも、認めなければならぬであろう。 しかしながら、われわれは、資本主義を認め、社会主義を認めたごとく、左様に唯心論を認め、唯物論を認・・・ 横光利一 「新感覚派とコンミニズム文学」
・・・あそこにまた昔話の磁石の山が、舟の釘を吸い寄せるように、探険家の心を始終引き付けている地極の秘密が眠っている。我々は北極の閾の上に立って、地極というものの衝く息を顔に受けている。 この土地では夜も戸を締めない。乞食もいなければ、盗賊もい・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・紙巻烟草に火を附けて見たが、その煙がなんともいえないほど厭になったので、窓から烟草を、遠くへ飛んで行くように投げ棄てた。外は色の白けた、なんということもない三月頃の野原である。谷間のように窪んだ所には、汚れた布団を敷いたように、雪が消え残っ・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・という命題をかかげる。これはギリシア人などが極力驕慢を警戒したのと同じ考えで、ギリシアにおいても神々の罰が覿面に下ったのである。しかし彼はそのあとへ、「位よりも卑下すれば、我身の罰が当る」と付け加えている。自敬の念を失うことは、驕慢と同じく・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
藤村は非常に個性の強い人で、自分の好みによる独自の世界というふうなものを、おのずから自分の周囲に作り上げていた。衣食住のすみずみまでもその独特な好みが行きわたっていたであろう。酒粕に漬けた茄子が好きだというので、冬のうちから、到来物の・・・ 和辻哲郎 「藤村の個性」
出典:青空文庫