・・・ ――まさか、十時、まだ五分前だ―― 立っていても、エレベエタアは水に沈んだようで動くとも見えないから、とにかく、左へ石梯子を昇りはじめた。元来慌てもののせっかちの癖に、かねて心臓が弱くて、ものの一町と駆出すことが出来ない。かつて、・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ どんなに深く愛する人でも、どんなに重く敬する人でも、一度心臓音の停止を聞くや、なお幾時間もたたないうちから、埋葬の協議にかかる。自分より遠ざけて、自分の目より離さんと工夫するのが人間の心である。哲学がそれを謳歌し、宗教がそれを賛美し、・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・僕は民さん一寸御出でと無理に背戸へ引張って行って、二間梯子を二人で荷い出し、柿の木へ掛けたのを民子に抑えさせ、僕が登って柿を六個許りとる。民子に半分やれば民子は一つで沢山というから、僕はその五つを持ってそのまま裏から抜けて帰ってしまった。さ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ こんな話をしているうちに、跡の二人は食事を済ませ、家根屋の持って来るような梯子を伝って、二階へあがった。相撲取りのように腹のつき出た婆アやが来て、「菊ちゃん、もう済んだの?」と言って、お膳をかたづけた。 いかにも、もう吉弥では・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・的な多能多才の応ずるところ、築城、建築、設計、発明、彫刻、絵画など――ことに絵画はかれをして後世永久の名を残さしめた物だが、ほとんどすべて未成品だ――を平気で、あせることなくやっている間に、後進または弟子であってまた対抗者なるミケランジェロ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・椿岳はこのお師匠さんに弟子入りして清元の稽古を初めたが、家族にも秘密ならお師匠さんにも淡島屋の主人であるのを秘して、手代か職人であるような顔をして作さんと称していた。それから暫らく経って椿岳の娘が同じお師匠さんに入門すると、或時家内太夫は「・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・「ははは、坊も、私のお弟子になってバイオリンが弾きたいかな。」と、おじいさんはいいました。「おじいさん、どうか僕に、バイオリンを教えてください。」と、少年は、熱心に、目を輝かして頼みました。 それからは、おじいさんは、自分のバイ・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・ 親子は裁縫の師匠をしているので、つい先方弟子の娘たちが帰った後の、断布片や糸屑がまだ座敷に散らかっているのを手早く片寄せて、ともかくもと蓐に請ずる。請ぜられるままお光は座に就いて、お互いに挨拶も済むと、娘は茶の支度にと引っ込む。「・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・下寺町の広沢八助に入門し、校長の相弟子たる光栄に浴していた。なお校長の驥尾に附して、日本橋五丁目の裏長屋に住む浄瑠璃本写本師、毛利金助に稽古本を註文したりなどした。 お君は金助のひとり娘だった。金助は朝起きぬけから夜おそくまで背中を・・・ 織田作之助 「雨」
・・・お彼岸に雪解けのわるい路を途中花屋に寄ったりして祖母につれられてきて、この部屋で痘痕の和尚から茶を出された――その和尚の弟子が今五十いくつかになって後を継いでるわけだった。自分も十五六年前までは暑中休暇で村に帰っていると、五里ほど汽車に乗っ・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
出典:青空文庫