・・・彼は二間ほどもない梯子を登り降りするのに胸の動悸を感じた。屋根の端の方へは怖くて近寄れもせなかった。その男は汚ない褌など露わして平気でずぶずぶと凹む軒端へつくばっては、新しい茅を差していた。 彼は屋根の棟に腰かけて、ほかほかと暖かい日光・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ 朽ちかけた梯子をあがろうとして、眼の前の小部屋の障子が開いていた。なかには蒲団が敷いてあり、人の眼がこちらを睨んでいた。知らぬふりであがって行きながら喬は、こんな場所での気強さ、と思った。 火の見へあがると、この界隈を覆っているの・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・俺は貴様の弟子の外光派に唾をひっかける。俺は今度会ったら医者に抗議を申し込んでやる」 日に当りながら私の憎悪はだんだんたかまってゆく。しかしなんという「生きんとする意志」であろう。日なたのなかの彼らは永久に彼らの怡しみを見棄てない。壜の・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・そこでは古い生活は死のような空気のなかで停止していた。思想は書棚を埋める壁土にしか過ぎなかった。壁にかかった星座早見表は午前三時が十月二十何日に目盛をあわせたまま埃をかぶっていた。夜更けて彼が便所へ通うと、小窓の外の屋根瓦には月光のような霜・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ちらかと言えば丸顔の色のくっきり白い、肩つきの按排は西洋婦人のように肉附が佳くってしかもなだらかで、眼は少し眠むいような風の、パチリとはしないが物思に沈んでるという気味があるこの眼に愛嬌を含めて凝然と睇視られるなら大概の鉄腸漢も軟化しますな・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・「イヤそうでない、全くうまいものだ、これほど技があるなら人の門を流して歩かないでも弟子でも取った方が楽だろうと思う、お前独身者かね?」「ヘイ、親もなければ妻子もない、気楽な孤独者でございます、ヘッヘヘヘヘヘ」「イヤ気楽でもあるま・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ 或日の夕暮、一人の若い品の佳い洋服の紳士が富岡先生の家の前えに停止まって、頻りと内の様子を窺ってはもじもじしていたが遂に門を入って玄関先に突立って、「お頼みします」という声さえ少し顫えていたらしい。「誰か来たぞ!」と怒鳴ったの・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想す」十一月四日――「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」同十八日――「月を蹈んで散歩す、青・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・青年はしばし四辺を見渡して停止みつおりおり野路を過る人影いつしか霧深き林の奥に消えゆくなどみつめたる、もしなみなみの人ならば鬱陶しとのみ思わんも、かれは然らず、かれが今の心のさまとこの朝の景色とは似通う節あり、霧立ち迷うておぼろにかすむ森の・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・彼及び彼の弟子たちは皆その法名に冠するに日の字をもってし、それはわれらの祖国の国号の「日本」の日であることが意識せられていた。彼は外房州の「日本で最も早く、最も旺んなる太平洋の日の出」を見つつ育ち、清澄山の山頂で、同じ日の出に向かって、彼の・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
出典:青空文庫