・・・この短い伝記は、感銘のふかいものであった。知識階級の若い聰明な女性が、そのすこやかな肉体のあらゆる精力と、精神の活力の全幅をかたむけて、兇暴なナチズムに対して人間の理性の明るさをまもり、民主精神をまもったはたらきぶりは、私たち日本の知識階級・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・ 広いところへかかっている大きい大きい暦の25という黒い文字や、一分ずつ動く電気時計。床を歩く群集のたてる擦るようなスースーという音。日本女はそれ等をやきつくように心に感覚しつつ郵便局の重い扉をあけたりしめたりした。 Yが帰ってから・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・ ここには、一九三二年の一月の創刊で、日本プロレタリア文化連盟から出版されていた『働く婦人』に書いた短いものからはじまって、一九四一年の一月執筆禁止をうけるまで婦人のために書いた感想、評論、伝記、書評など四十篇が集められている。一・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十五巻)」
・・・に讚歎するとき若い婦人たちはそれぞれの主人公たちの伝奇的な面へロマンティックな感傷をひきつけられ、科学というとどこまでも客観的で実証的な人間精神の努力そのものの歴史的な成果への評価と混同するような結果をも生むのである。 婦人の文化の素質・・・ 宮本百合子 「科学の常識のため」
・・・ 徳川時代というものの中で眺める馬琴というような作家は、同時代の庶民的情調に立つ軟文学の気風に対して、教養派のくみであったろうが、馬琴の芸術家としての教養の実体はモラルとしての儒教に支那伝奇小説の翻案的架空性を加えたものが本道をなしてい・・・ 宮本百合子 「作家と教養の諸相」
朝小間使の雪が火鉢に火を入れに来た時、奥さんが不安らしい顔をして、「秀麿の部屋にはゆうべも又電気が附いていたね」と云った。「おや。さようでございましたか。先っき瓦斯煖炉に火を附けにまいりました時は、明りはお消しになって・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・歴史においては、初め手を下すことを予期せぬ境であったのに、経歴と遭遇とが人のために伝記を作らしむるに至った。そしてその体裁をして荒涼なるジェネアロジックの方向を取らしめたのは、あるいはかのゾラにルゴン・マカアルの血統を追尋させた自然科学の余・・・ 森鴎外 「なかじきり」
・・・大抵訳本に添えて書くべき事は、原書の由来とか原作者の伝記とか云うもので、その外は飜訳の凡例のような物であろう。その原書の由来と説明とは、所謂ファウスト文献、一層広く言えばギョオテ文献があって、その汗牛充棟ただならざる中にいくらでもある。現に・・・ 森鴎外 「訳本ファウストについて」
出典:青空文庫