・・・そして行手の闇の中にまたたく希望の灯影といったようなものを作家とともに認めてささやき合うような気がする。 明るく鮮やかであった白馬会時代を回想してみると、近年の洋画界の一面に妙に陰惨などす黒いしかもその中に一種の美しさをもったものの影が・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・洲崎の灯影長うして江水漣れんい清く、電燈煌として列車長きプラットフォームに入れば吐き出す人波。下駄の音靴のひゞき。 寺田寅彦 「東上記」
・・・どうかして電車がしばらく来ない時には、河岸の砂利置場へはいってお堀の水をながめたり呉服橋を通る電車の倒影を見送ったりする。丸善の二階で得たいろいろな印象や、三越で受けたさまざまな刺激がこの河岸の風に吹かれて緊張のゆるんだ時に、いろいろの変わ・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・ 劣者の道の谷底の漸近線までの部分は優者の道の倒影に似ている。そして谷底まで下りた人の多数はそのままに麓の平野を分けて行くだろうし、少数の人はそこからまた新しい上り坂に取りつきあるいはさらに失脚して再び攀上る見込のない深坑に落ちるのであ・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・暗闇阪の街燈には今でもやもりが居るが、元のような空想はもう起らぬ、小さな細長い黒影は平和な灯影に眠っているように思われるのである。 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・その姿を哀れと見るのは、すなわち日本人の日常生活のあわれを一羽の鳥に投影してしばらくそれを客観する、そこに始めて俳諧が生まれるのである。旅には渡渉する川が横たわり、住には小獣の迫害がある。そうして梨を作り、墨絵をかきなぐり、めりやすを着用し・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・対岸の黒い松原蔭に、灯影がちらほら見えた。道路の傍には松の生い茂った崖が際限もなく続いていた。そしてその裾に深い叢があった。月見草がさいていた。「これから夏になると、それあ月がいいですぜ」桂三郎はそう言って叢のなかへ入って跪坐んだ。・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・蚊遣の烟になお更薄暗く思われる有明の灯影に、打水の乾かぬ小庭を眺め、隣の二階の三味線を簾越しに聴く心持……東京という町の生活を最も美しくさせるものは夏であろう。一帯に熱帯風な日本の生活が、最も活々として心持よく、決して他人種の生活に見られぬ・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・わたくしが電報配達人の行衛を見送るかなたに、初て荒川放水路の堤防らしい土手を望んだ時には、その辺の養魚池に臨んだ番小屋のような小家の窓には灯影がさして、池の面は黄昏れる空の光を受けて、きらきらと眩く輝き、枯蘆と霜枯れの草は、かえって明くなっ・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・と斧を振り翳して灯影に刃を見る。「婆様ぎりか、ほかに誰もいないか」と髯がまた問をかける。「それから例のがやられる」「気の毒な、もうやるか、可愛相にのう」といえば、「気の毒じゃが仕方がないわ」と真黒な天井を見て嘯く。 たちまち窖も首斬りも・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
出典:青空文庫