・・・谷を攀じ、峰にのぼり、森の中をくぐりなどして、杖をもつかで、見めぐるにぞ、盗人の来て林に潜むことなく、わが庵も安らかに、摩耶も頼母しく思うにこそ、われも懐ししと思いたり。「食べやしないんだよ。爺や、ただ玩弄にするんだから。」「それな・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・おまえのきらいな、いっしょになると生き血を吸われるような人間でな、たとえばかったい坊だとか、高利貸しだとか、再犯の盗人とでもいうような者だったら、おれは喜んで、くれてやるのだ。乞食ででもあってみろ、それこそおれが乞食をしておれの財産をみなそ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・突然こなたに向きて、しからば問いまいらせん、愛の盗人もし何の苦悩をも自ら覚えで浮世を歌い暮らさばいかに、これも何かの報酬あるべきか。 二郎は高く笑いてわが顔をながめ、わが答えをまつらんごとし。問いの主はわれ聞き覚えある声とは知れど思いい・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 主人の語るところによると、この哀れなきょうだいの父親というは、非常な大酒家で、そのために命をも縮め、家産をも蕩尽したのだそうです。そして姉も弟も初めのうちは小学校に出していたのが、二人とも何一つ学び得ず、いくら教師が骨を折ってもむだで・・・ 国木田独歩 「春の鳥」
・・・お掃除しながら、ふと「唐人お吉」を唄う。ちょっとあたりを見廻したような感じ。普段、モオツァルトだの、バッハだのに熱中しているはずの自分が、無意識に、「唐人お吉」を唄ったのが、面白い。蒲団を持ち上げるとき、よいしょ、と言ったり、お掃除しながら・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・ それは、たしかに、盗人の三分の理にも似ているが、しかし、私の胸の奥の白絹に、何やらこまかい文字が一ぱいに書かれている。その文字は、何であるか、私にもはっきり読めない。たとえば、十匹の蟻が、墨汁の海から這い上って、そうして白絹の上をかさ・・・ 太宰治 「父」
・・・はる、こうろう、も、それから、唐人お吉も、それから青い目をした異人さんという歌も、みんなあたしが教えたのよ。きょうはこれからみんなでお寺に集ってお稽古。うちへ帰るのがおそくなるでしょうから、兄さんにそう言ってね、日本の文化のためですからって・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・女中は、盗人の如く足音を忍ばせて持ち運んで来た。「おしずかに、お飲みになって下さいよ。」「心得ている。」 鶴は、大闇師のように、泰然とそう答えて、笑った。 その下には紺碧にまさる青き流れ、 その上には黄金なす陽の・・・ 太宰治 「犯人」
・・・「満員御礼」とはり札がしてあった。「唐人お吉」にしても同様であった。 これらの邦劇映画を見て気のつくことは、第一に芝居の定型にとらわれ過ぎていることである、書き割りを背にして檜舞台を踏んでフートライトを前にして行なって始めて調和すべき演・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・ 不思議なことには、このドイツ語で紹介された老子はもはや薄汚い唐人服を着たにがにがとこわい顔をした貧血老人ではなくて、さっぱりとした明るい色の背広に暖かそうなオーバーを着た童顔でブロンドのドイツ人である。どこかケーベルさんに似ている、と・・・ 寺田寅彦 「変った話」
出典:青空文庫