・・・そこにはただ雲の影の時々大走りに通るだけだった。僕等は敷島を啣えながら、しばらくは黙ってこう言う渚に寄せて来る浪を眺めていた。「君は教師の口はきまったのか?」 Mは唐突とこんなことを尋ねた。「まだだ。君は?」「僕か? 僕は…・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・彼は小作小屋の前を通るごとに、気をつけて中をのぞいて見た。何処の小屋にも灯はともされずに、鍋の下の囲炉裡火だけが、言葉どおりかすかに赤く燃えていた。そのまわりには必ず二、三人の子供が騒ぎもしないできょとんと火を見つめながら車座にうずくまって・・・ 有島武郎 「親子」
・・・乗合馬車が通る。もう開けた店には客が這入る。 フレンチは車に乗った。締め切って、ほとんど真暗な家々の窓が後へ向いて走る。まだ寐ている人が沢山あるのである。朝毎の町のどさくさはあっても、工場の笛が鳴り、汽車ががたがた云って通り、人の叫声が・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・全体が薄樺で、黄色い斑がむらむらして、流れのままに出たり、消えたり、結んだり、解けたり、どんよりと濁肉の、半ば、水なりに透き通るのは、是なん、別のものではない、虎斑の海月である。 生ある一物、不思議はないが、いや、快く戯れる。自在に動く・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・天秤の先へ風呂敷ようのものをくくしつけ肩へ掛けてくるもの、軽身に懐手してくるもの、声高に元気な話をして通るもの、いずれも大回転の波動かと思われ、いよいよ自分の胸の中にも何かがわきかえる思いがするのである。 省作は足腰の疲れも、すっかり忘・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ でこぼこした道を踏みしめ、踏みしめ、僕は歩いていたが、街道を通る人かげがすべて僕の敵であるかのように思われた。月光に投げ出した僕の影法師も、僕には何だかおそろしかった。 なるべく通行者に近よらないようにして、僕はまず例のうなぎ屋の・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ドチラかというと寡言の方で、眼と唇辺に冷やかな微笑を寄せつつ黙して人の饒舌を聞き、時々低い沈着いた透徹るような声でプツリと止めを刺すような警句を吐いてはニヤリと笑った。 緑雨の随筆、例えば『おぼえ帳』というようなものを見ると、警句の連発・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・と思って、物に追われて途方に暮れた獣のように、夢中で草原を駆けた時の喜は、いつか消えてしまって、自分の上を吹いて通る、これまで覚えた事のない、冷たい風がそれに代ったのである。なんだか女学生が、今死んでいるあたりから、冷たい息が通って来て、自・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ はたして夜になると、家の前をカッポ、カッポと鳴らして通るひづめの音をみんなは聞きました。その後からつづいて、幾つかの乱れたひづめの音が、入り混じって聞こえてきました。みんなは、息を潜めて黙って、その音に耳を傾けたのです。すると、ひづめ・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・山本屋の前を通る時には、怨しそうに二階を見挙げて行くそうだ。私は見慣れた千草の風呂敷包を背負って、前には女房が背負うことに決っていた白金巾の包を片手に提げて、髪毛の薄い素頭を秋の夕日に照されながら、独り町から帰ってくる姿を哀れと見た。で、女・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫