･･･このもう一人の人物が果して三浦の細君だったか、それとも女権論者だったかは、今になってもなお私には解く事の出来ない謎なのです。」 本多子爵はどこからか、大きな絹の手巾を出して、つつましく鼻をかみながら、もう暮色を帯び出した陳列室の中を見廻･･･ 芥川竜之介 「開化の良人」
･･･あるいはまた、ドッペルゲンゲルと云う現象が、その疑を解くためには余りに異常すぎたせいもあるのに相違ございません。妻は私の枕もとで、いつまでも啜り上げて泣いて居ります。 そこで私は、前に掲げた種々の実例を挙げて、如何にドッペルゲンゲルの存･･･ 芥川竜之介 「二つの手紙」
･･･天主閣はその名の示すがごとく、天主教の渡来とともに、はるばる南蛮から輸入された西洋築城術の産物であるが、自分たちの祖先の驚くべき同化力は、ほとんど何人もこれに対してエキゾティックな興味を感じえないまでに、その屋根と壁とをことごとく日本化し去･･･ 芥川竜之介 「松江印象記」
･･･ 破していわく、汝提宇子、この段を説く事、ひとえに自縄自縛なり、まず DS はいつくにも充ち満ちて在ますと云うは、真如法性本分の天地に充塞し、六合に遍満したる理を、聞きはつり云うかと覚えたり。似たる事は似たれども、是なる事は未だ是ならず･･･ 芥川竜之介 「るしへる」
･･･ 仁右衛門は押太とく腹を据えた。彼れは自分の夢をまだ取消そうとはしなかった。彼れの後悔しているものは博奕だけだった。来年からそれにさえ手を出さなければ、そして今年同様に働いて今年同様の手段を取りさえすれば、三、四年の間に一かど纏まった金･･･ 有島武郎 「カインの末裔」
･･･沢本 俺はまあやめとく。握手だけしとく。とも子 さよなら生蕃さん。青島 さよなら。とも子 おだいじに浮気屋さん。瀬古 唇をよくお見せ。あああ。とも子 さよならかわいい若様。とも子さすがに感情せまって泣き･･･ 有島武郎 「ドモ又の死」
･･･日本にもそういう人がいたら、その人のみがインテリゲンチャの貢献のいかによきかを説くがいい。それほどの覚悟なしに口の先だけで物をいっているくらいなら、おとなしく私はブルジョアの気分が抜けないから、ブルジョアに対して自分の仕事をしますといってい･･･ 有島武郎 「片信」
･･･を看過することができない。それは、論者がその指摘を一の議論として発表するために――「自己主張の思想としての自然主義」を説くために、我々に向って一の虚偽を強要していることである。相矛盾せる両傾向の不思議なる五年間の共棲を我々に理解させるために･･･ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
･･･ 衝と手を伸して、立花が握りしめた左の拳を解くがごとくに手を添えつつ、「もしもの事がありますと、あの方もお可哀そうに、もう活きてはおられません。あなたを慕って下さるなら、私も御恩がある。そういうあなたが御料簡なら、私が身を棄ててあげ･･･ 泉鏡花 「伊勢之巻」
･･･ 人の妻と、かかる術して忍び合うには、疾く我がためには、神なく、物なく、父なく、母なく、兄弟なく、名誉なく、生命のないことを悟っていたけれども、ただ世に里見夫人のあるを知って、神仏より、父より、母より、兄弟より、名誉より、生命よりは便に･･･ 泉鏡花 「伊勢之巻」
出典：青空文庫
