・・・だが、金さんの身になりゃ年寄りでも附けとかなきゃ心配だろうよ、何しろ自分は始終留守で、若い女房を独り置いとくのだから……なあお光、お前にしたって何だろう、亭主は年中家にいず、それで月々仕送りは来て、毎日遊んで食って寝るのが為事としたら、ちょ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ちと遊びに来とくなはれ」 してみると、昨夜の咳ばらいはこの男だったのかと、私はにわかに居たたまれぬ気がして、早々に湯を出てしまった。そして、お先きにと、湯殿の戸をあけた途端、化物のように背の高い女が脱衣場で着物を脱ぎながら、片一方の眼で・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・そして夜中用事がなくても呼び起すので、登勢は帯を解く間もなく、いつか眼のふちは黝み、古綿を千切って捨てたようにクタクタになった。そして、もう誰が見ても、祝言の夜、あ、螢がと叫んだあの無邪気な登勢ではなかったから、これでは御隠居も追いだせまい・・・ 織田作之助 「螢」
・・・いまさら帰らぬことながら、わしというものないならば、半兵衛様もお通に免じ、子までなしたる三勝どのを、疾くにも呼び入れさしゃんしたら、半七さんの身持も直り、ご勘当もあるまいに……」と三勝半七のサワリを語りながらやって来るのは、柳吉に違いなかっ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・それはあるいはK君の死の謎を解く一つの鍵であるかも知れないと思うからです。 それはいつ頃だったか、私がNへ行ってはじめての満月の晩です。私は病気の故でその頃夜がどうしても眠れないのでした。その晩もとうとう寝床を起きてしまいまして、幸い月・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・「勝子がそこらにいますで、よぼってやっとくなさい」と義母が言った。 袖の長い衣服を着て、近所の子らのなかに雑っている勝子は、呼ばれたまま、まだなにか言いあっている。「『カ』ちうとこへ行くの」「かつどうや」「活動や、活動や・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・渓流あり、淵あり、滝あり、村落あり、児童あり、林あり、森あり、寄宿舎の門を朝早く出て日の暮に家に着くまでの間、自分はこれらの形、色、光、趣きを如何いう風に画いたら、自分の心を夢のように鎖ざしている謎を解くことが出来るかと、それのみに心を奪ら・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・ わが心は鉛のごとく重く、暮れゆく空の雲をながめ入りてしばしは夢心地せり。われには少しもこの夜の送別会に加わらん心あらず、深き事情も知らでただ壮なる言葉放ち酒飲みかわして、宮本君がこの行を送ると叫ぶも何かせん。 げに春ちょう春は永久・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・「その夜、門口まで送り、母なる人が一寸と上って茶を飲めと勧めたを辞し自宅へと帰路に就きましたが、或難い謎をかけられ、それを解くと自分の運命の悲痛が悉く了解りでもするといったような心持がして、決して比喩じゃアない、確にそういう心持がして、・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・僕は今この港の光景を詳しく説くことはできないが、その夜僕の目に映って今日なおありありと思い浮かべることのできるだけを言うと、夏の夜の月明らかな晩であるから、船の者は甲板にいで、家の者は外にいで、海にのぞむ窓はことごとく開かれ、ともし火は風に・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
出典:青空文庫