・・・鮒子は響のごとくに沈んで、争い乱れて味噌汁へ逃げこんでしまう。 藤さんが笑う。 手飼の白鳩が五六羽、離れの屋根のあたりから羽音を立てて芝生へ下りる。「あの鴎は綺麗な鳥ですね」と藤さんがいう。「あれは鳩じゃありませんか」「・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・と下締を解く。それを結んで小暗い風呂場から出てくると、藤さんが赤い裏の羽織を披げて後へ廻る。「そんなものを私に着せるのですか」「でもほかにはないんですもの」と肩へかける。「それでも洋服とは楽でがんしょうがの」と、初やが焜炉を煽ぎ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ 村の水天宮様の御威徳を説く時の顔つきである。「ほほほ」「おもしろいな、それは」「そんなら食べなんすか」「食べるよ」「じゃ、よかった」と、またあちらへすたすたと、草履の踵へ短い影法師を引いて行く。 鳩は少しも人に・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・とあたかも一つの決心がついたかのごとく呟くが、しかし、何一つとしてうまい考えは無く、谷間の老人は馬に乗って威厳のある演説をしようとするが、馬は老人の意志を無視してどこまでも一直線に歩き、彼は演説をしながら心ならずも旅人の如く往還に出て、さら・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・彼等の考え出すいろいろな革新は僕の周囲に死の機会を増し、彼等の説くところは僕を死に導き、または彼等の定める法律は僕に死を与えるのだ。」 織田君を殺したのは、お前じゃないか。 彼のこのたびの急逝は、彼の哀しい最後の抗議の詩であった。・・・ 太宰治 「織田君の死」
・・・何を説くんだ。」 とみは、途方にくれた人のように窓外の葉桜をだまって眺めた。男爵も、それにならって、葉桜を眺めた。にが虫を噛みつぶしたような顔をしていた。とみは、ちょっと肩をすくめ、いまは観念したかおそろしく感動の無い口調で、さらさら言・・・ 太宰治 「花燭」
・・・私がその頃、どれほど作家にあこがれていたか、そのはかない渇望の念こそ、この疑問を解く重要な鍵なのではなかろうか。 ああ、あの間抜けた一言が、私に罪を犯させた。思い出すさえ恐ろしい殺人の罪を犯させた。しかも誰ひとりにも知られず、また、いま・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・同時に、それは彼の生涯の渾沌を解くだいじな鍵となった。形式には、「雛」の影響が認められた。けれども心は、彼のものであった。原文のまま。 おかしな幽霊を見たことがございます。あれは、私が小学校にあがって間もなくのことでございますから、どう・・・ 太宰治 「葉」
・・・げんに私が、その大泥靴の夢を見ながら、誰も私に警報して呉れぬものだから、どうにも、なんだか気にかかりながら、その夢の真意を解くことが出来ず愚図愚図まごついているうちに、とうとうどろぼうに見舞われてしまったではないか。まだ、ある。なんとも意味・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ロレンツのごとき優れた老大家は疾くからこの問題に手を附けて、色々な矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折っている間に、この若い無名の学者はスイスの特許局の一隅にかくれて、もっともっと根本的な大手術を考えていた。病の根は電磁気や光より・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫