・・・引摺り上げる時風呂敷の間から、その結目を解くにも及ばず、書物が五、六冊畳の上へくずれ出したので、わたしは無造作に、「君、拾円貸したまえ。」 番頭は例の如くわれわれをあくまで仕様のない坊ちゃんだというように、にやにや笑いながら、「駄目・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
大抵のイズムとか主義とかいうものは無数の事実を几帳面な男が束にして頭の抽出へ入れやすいように拵えてくれたものである。一纏めにきちりと片付いている代りには、出すのが臆劫になったり、解くのに手数がかかったりするので、いざという・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・百二十間の廻廊に春の潮が寄せて、百二十個の灯籠が春風にまたたく、朧の中、海の中には大きな華表が浮かばれぬ巨人の化物のごとくに立つ。……」 折から烈しき戸鈴の響がして何者か門口をあける。話し手ははたと話をやめる。残るはちょと居ずまいを直す・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・あるものは緩く、あるものは疾く遶る。またある時は輪さえ描く隙なきに乱れてしまう。「荼毘だ、荼毘だ」と丸顔の男は急に焼場の光景を思い出す。「蚊の世界も楽じゃなかろ」と女は人間を蚊に比較する。元へ戻りかけた話しも蚊遣火と共に吹き散らされてしもう・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・女の頬には乳色の底から捕えがたき笑の渦が浮き上って、瞼にはさっと薄き紅を溶く。「縫えばどんな色で」と髯あるは真面目にきく。「絹買えば白き絹、糸買えば銀の糸、金の糸、消えなんとする虹の糸、夜と昼との界なる夕暮の糸、恋の色、恨みの色は無・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・常に勝る豊頬の色は、湧く血潮の疾く流るるか、あざやかなる絹のたすけか。ただ隠しかねたる鬢の毛の肩に乱れて、頭には白き薔薇を輪に貫ぬきて三輪挿したり。 白き香りの鼻を撲って、絹の影なる花の数さえ見分けたる時、ランスロットの胸には忽ちギニヴ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・先生が疾くに索寞たる日本を去るべくして、いまだに去らないのは、実にこの愛すべき学生あるがためである。 京都の深田教授が先生の家にいる頃、いつでも閑な時に晩餐を食べに来いと云われてから、行かずに経過した月日を数えるともう四年以上になる。よ・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・すでに平等的である以上は圏を画して圏内圏外の別を説く必要はない。英国の二大政党のごときは単に採決に便宜なる約束的の団隊と見傚して差支ない。またすでに個人的である以上はどこまでも自己の特色を自己の特色として保存する必要がある。 文壇の諸公・・・ 夏目漱石 「文壇の趨勢」
・・・横たわりて起きぬ間を、疾くも縫えるわが短刀の光を見よ。吾ながら又なき手柄なり。……」ブラヴォーとウィリアムは小声に云う。「巨人は云う、老牛の夕陽に吼ゆるが如き声にて云う。幻影の盾を南方の豎子に付与す、珍重に護持せよと。われ盾を翳してその所以・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・デカルトは此に人に説くためにということを主として考えているようであるが、徹底的な懐疑的自覚、何処までも否定的分析ということは、哲学そのものに固有な、哲学という学問そのものの方法でなければならない。私は哲学の方法を否定的自覚、自覚的分析と考え・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
出典:青空文庫