・・・ 遠藤は手紙を読み終ると、懐中時計を出して見ました。時計は十二時五分前です。「もうそろそろ時刻になるな、相手はあんな魔法使だし、御嬢さんはまだ子供だから、余程運が好くないと、――」 遠藤の言葉が終らない内に、もう魔法が始まる・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・しかも裁判を重ねた結果、主犯蟹は死刑になり、臼、蜂、卵等の共犯は無期徒刑の宣告を受けたのである。お伽噺のみしか知らない読者はこう云う彼等の運命に、怪訝の念を持つかも知れない。が、これは事実である。寸毫も疑いのない事実である。 蟹は蟹自身・・・ 芥川竜之介 「猿蟹合戦」
・・・父は蒲団の左角にひきつけてある懐中道具の中から、重そうな金時計を取りあげて、眼を細めながら遠くに離して時間を読もうとした。 突然事務所の方で弾条のゆるんだらしい柱時計が十時を打った。彼も自分の時計を帯の間に探ったが十時半になっていた。・・・ 有島武郎 「親子」
・・・フレンチは時計を出して一目見て、身を起した。 出口のところで、フレンチが靴の上に被せるものを捜しているときになって、奥さんはやっと臆病げに口を開いた。「あなた御病気におなりなさりはしますまいね。」 フレンチは怒が心頭より発した。・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 十 その中に最も人間に近く、頼母しく、且つ奇異に感じられたのは、唐櫃の上に、一個八角時計の、仰向けに乗っていた事であった。立花は夢心地にも、何等か意味ありげに見て取ったので、つかつかと靴を近けて差覗いたが、もの・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・一寸時計を見ると九時二十分になる。改札口を出るまでは躊躇せず急いで出たが、夜は意外に暗い。パッタリと闇夜に突当って予は直ぐには行くべき道に践み出しかねた。 今一緒に改札口を出た男女の客は、見る間に影の如く闇に消えて終った。軒燈の光り鈍く・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・と、正ちゃんが時計を見て口を出した。「また、あの青木と蕎麦屋へ行ったのだろう」お君が長い顎を動かした。蕎麦屋と聴けば、僕も吉弥に引ッ込まれたことがあって、よく知っているから、そこへ行っている事情は十分察しられるので、いいことを聴かしてく・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・急いで時計を見ると払暁の四時だった。「これじゃアとても競争が出来ない、」とその後私の許へ来て話した。 尤も二時三時まで話し込むお客が少くなかったのだから、書斎のアカリの消えるのが白々明けであるのは不思議でない。「人間は二時間寝れば沢山だ・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・カーライルの何十年ほどかかった『革命史』を焼いてしまった。時計の三分か四分の間に煙となってしまった。それで友人がこのことを聞いて非常に驚いた。何ともいうことができない。ほかのものであるならば、紙幣を焼いたならば紙幣を償うことができる、家を焼・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・丁度時計のセコンドのようである。セコンドや時間がどうなろうと、そんな事は、もうこの二人には用がないのである。女学生の立っている右手の方に浅い水溜があって、それに空が白く映っている。それが草原の中に牛乳をこぼしたように見える。白樺の木共はこれ・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
出典:青空文庫