・・・「計略は駄目だったわ。とても私は逃げられなくってよ」「そんなことがあるものですか。私と一しょにいらっしゃい。今度しくじったら大変です」「だってお婆さんがいるでしょう?」「お婆さん?」 遠藤はもう一度、部屋の中を見廻しまし・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・「さよう、とうからこの際には土地はいただかないことにして、金でお願いができますれば結構だと存じていたのでございますが……しかし、なに、これとてもいわばわがままでございますから……御都合もございましょうし……」「とうから」と聞きかえし・・・ 有島武郎 「親子」
・・・残るところはただ醜き平凡なる、とても吾人の想像にすらたゆべからざる死骸のみではないか。 自由に対する慾望は、しかしながら、すでに煩多なる死法則を形成した保守的社会にありては、つねに蛇蠍のごとく嫌われ、悪魔のごとく恐れらるる。これ他なし、・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ よし、それとても朧気ながら、彼処なる本堂と、向って右の方に唐戸一枚隔てたる夫人堂の大なる御廚子の裡に、綾の几帳の蔭なりし、跪ける幼きものには、すらすらと丈高う、御髪の艶に星一ツ晃々と輝くや、ふと差覗くかとして、拝まれたまいぬ。浮べる眉・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 七日と思うてもとても七日はいられず三日で家に帰った。人の家のできごとが、ほとんどよそごとでないように心を刺激する。僕はよほど精神が疲れてるらしい。 静かに過ぎてきたことを考えると、君もいうようにもとの農業に返りたい気がしてならぬ。・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・昼間はとても出ることが出来なかった、日が暮れるのを待ったんやけど、敵は始終光弾を発射して味方の挙動を探るんで、矢ッ張り出られんのは同じこと。」「鳥渡聴くが、光弾の破裂した時はどんなものだ?」「三四尺の火尾を曳いて弓形に登り、わが散兵・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・椿岳の個性を発揮した泥画の如きは売るための画としてはとても考え及ばないものである。椿岳の泥画 椿岳の泥画というは絵馬や一文人形を彩色するに用ゆる下等絵具の紅殻、黄土、丹、群青、胡粉、緑青等に少量の墨を交ぜて描いた画である。そればかり・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・そこでわれわれがこれを読みますときに「アア、とても私にはそんなことはできない、今ではアメリカへ行っても金はもらえまい、また私にはそのように人と共同する力はない。私にはそういう真似はできない、私はとてもそういう事業はできない」というて失望しま・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ 彼女は、無意識のうちに、「私の生まれた、北国では、とても星の光が強く、青く見えてよ。」といった、若い上野先生の言葉が記憶に残っていて、そして、いつのまにか、その好きだった先生のことを思い出していたのであります。 すでに、彼女は、い・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・そして襤褸夜具と木枕とが上り口の片隅に積重ねてあって、昼間見るととても体に触れられたものではない。私はきゅうに自分の着ている布団の穢さが気になって、努めて起きでた。 私もそこにしてあるとおり、自分の布団と木枕とを上り口の横に積重ねて、そ・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫