・・・お前の娘を引きとるのに、どこそこの警察へ行けというのです。私はぎょう天して、もう半分泣きながらやって行くのです。すると娘が下の留置場から連れて来られます。青い汚い顔をして、何日いたのか身体中プーンといやなにおいをさせているのです。――娘の話・・・ 小林多喜二 「疵」
・・・ しばらくするうちに、私は二階の障子のそばで自分の机の前にすわりながらでも、階下に起こるいろいろな物音や、話し声や、客のおとずれや、子供らの笑う声までを手に取るように知るようになった。それもそのはずだ。餌を拾う雄鶏の役目と、羽翅をひろげ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・「蛙が鳴いとる」 と言って、三吉はおげんの側へ寄った。何時の間に屋外へ飛出して行って、何時の間に帰って来ているかと思われるようなのは、この遊びに夢中な子供だ。「ほんに」とおげんは甥というよりは孫のような三吉の顔を見て言った。「そ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・と手に取る。「どこで目っけたんです? たった一本咲いてたんですか」「どうですか。さっき玉子を持ってきた女の子がくれてったんですの。どこかの石垣に咲いていたんだそうです。初やがね、これはこのごろあんまり暖かいものだから、つい欺されて出・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・次女は、したり顔して、あとを引きとる。「それは、きっと、こうなのよ。博士が、そのマダムとわかれてから、沛然と夕立ち。どうりで、むしむし暑かった。散歩の人たちは、蜘蛛の子を散らすように、ぱあっと飛び散り、どこへどう消え失せたのか、お化けみたい・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ら、二十年間の秘めたる思いなどという女学生の言葉みたいなものを、それも五十歳をとうに越えられているあなたに向って使用するのは、いかにもグロテスクで、書いている当人でさえ閉口している程なのですから、受け取るあなたの不愉快も、わかるように思いま・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・ この作は、『蒲団』などよりも以前に構想したものであるが、『生』を書いてしまい『妻』を書いてしまってもまだ筆をとる気になれない。材料がだんだん古く黴が生えていくような気がする。それに、新しい思潮が横溢して来たその時では、その作の基調がロ・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・若い時、ああいうふうで、むやみに恋愛神聖論者を気どって、口ではきれいなことを言っていても、本能が承知しないから、ついみずから傷つけて快を取るというようなことになる。そしてそれが習慣になると、病的になって、本能の充分の働きをすることができなく・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ああやっている方が、急に飛出すときに身体の釣合をとるために好都合かとも思ってみる。実際電線に止まって落着いている時はほとんど尾を静止させている。それが飛出す前にはまた振動をはじめる。飛んで来て止まった時には最初大きく振れるが急速な減衰振動を・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・りをかけながら左の手を引き退けて行くと、見る見る指頭につまんだ綿の棒の先から細い糸が発生し延びて行く、左の手を伸ばされるだけ伸ばしたところでその手をあげて今できあがっただけの糸を紡錘に通した竹管に巻き取る、そうしておいて再び左手を下げて糸を・・・ 寺田寅彦 「糸車」
出典:青空文庫