・・・車屋へお金をはらおうと思うと銅貨が一つ足りなかった。 柱のベルをはげしくならすと、「お帰りなさった。と云う声が聞えると女達は私のわきに泣きころげた。「どうなの? え、どうなのよ。 震えて口が利けない様だっ・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・畳の上へ賽銭箱をバタン、こっちへバタンと引っくりかえすが出た銅貨はほんのぽっちり。今度は正面の大賽銭箱。すのこのように床にとりつけてある一方が鍵で開くらしい。年よりの男が大きい昔ながらの鍵をガチャガチャ鳴らしてあちら向きに何かしている。白木・・・ 宮本百合子 「金色の秋の暮」
・・・ いずれも、我が文学界に大なる改革の行われる導火線であった日露戦争前に栄えて空しくなられたのであるから、日露戦争以後に起った文学――哲学的な、宗教的な、自箇の思想、箇人性を発揮し様とする文学を見る機会が少なかった、――或はまるでなかった・・・ 宮本百合子 「紅葉山人と一葉女史」
・・・彼等は、ジイドが死よりも嫌う同化主義者、保守主義者、生涯に只の一遍も人間の為に献身しようとしなかったために傷つきもしなかった、無疵のままの利己主義者である。社会の枠がこのままであって、猶且つ人間が建直されるということはあり得るであろうか。極・・・ 宮本百合子 「ジイドとそのソヴェト旅行記」
・・・横光はそのような冒険で、万一久内が対立人物と同化してしまったり、あるいは久内ともう一人の人物がもみあったまま、ついに「紋章」という一定の実験室的目的をもったガラス試験管が爆発してしまったりしては、何にもならない。そのことをよく心得ているので・・・ 宮本百合子 「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」
・・・凝っと立ち、同化作用も営まない。―― そうかと思うと、彼等は俄に生きものらしい衝動的なざわめきを起し、日が沈んだばかりの、熱っぽい、藍と卵色の空に向って背延びをしようと動き焦るように思われる。 夜とともに、砂漠には、底に潜んだほとぼ・・・ 宮本百合子 「翔び去る印象」
・・・おできのあとか何か、頭の殆ど中央に一銭銅貨位のおはげがあるのが皆をやたらに笑わせる。ロシア人はパンをくれと云う事を、 メリゴスゴスと云うと私に教えた。そんな事はないだろうと云ってもきかない。私のきいたのに間違の有ろうはずがな・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・ 母さえ幾らか打ち興じて、テーブルの上に大きい厚い五十銭銀貨を一枚先頭に置いて次にそれより小さい二十銭の銀貨、ちびな十銭、白銅が二枚、でっくりの二銭銅貨、一銭、あとぞろりとけちな五厘銅貨を並べた。「ふーむ」 到頭一円を、百銭にし・・・ 宮本百合子 「百銭」
・・・作者は、竹造のこまごまとした内的推移についてゆくうちに、あるところでは全く竹造と同化して余韻嫋々的リズムへ顔を押しつけているために、作品の後味は、この作品がある特別な階級人をその輪廓の内から書いているような錯倒した印象を与えるのである。・・・ 宮本百合子 「文学における古いもの・新しいもの」
・・・君なんぞの理想と一致するだろうと思うが、どうかねえ。」 木村は馬鹿々々しいと思って、一寸顔を蹙めたくなったのをこらえている。 そのうち停留場に来た。場末の常で、朝出て晩に帰れば、丁度満員の車にばかり乗るようになるのである。二人は赤い・・・ 森鴎外 「あそび」
出典:青空文庫