・・・ 実際自分がツルゲーネフを翻訳する時は、力めて其の詩想を忘れず、真に自分自身其の詩想に同化してやる心算であったのだが、どうも旨く成功しなかった。成功しなかったとは云え、標準は矢張り其処にあったのである。但だ、自分が其の間に種々と考えて見・・・ 二葉亭四迷 「余が翻訳の標準」
・・・大方己のために不思議の世界を現じた楽人は、詰らぬ乞食か何かで、門に立って楽器を鳴らしていたのが、今は曲を終ったので帽子でも脱いで、その中へ銅貨を入れて貰おうとしているのだろう。この窓の下の処には立っていない。どうも不思議だ。何処にいるのか知・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ついぞ一人で啜泣をしながら寂しい道を歩いた事はない。どうかした拍子でふいと自然の好い賜に触れる事があってもはっきり覚めている己の目はその朧気な幸を明るみへ引出して、余りはっきりした名を付けてしまったのだ。そして種々な余所の物事とそれを比べて・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・、しかるに八十八人目の姨を喰うてしもうた時ふと夕方の一番星の光を見て悟る所があって、犬の分際で人間を喰うというのは罪の深い事だと気が付いた、そこで直様善光寺へ駈けつけて、段々今までの罪を懺悔した上で、どうか人間に生れたいと願うた、七日七夜、・・・ 正岡子規 「犬」
・・・なぜなら、この森が私へこの話をしたあとで、私は財布からありっきりの銅貨を七銭出して、お礼にやったのでしたが、この森は仲々受け取りませんでした、この位気性がさっぱりとしていますから。 さてみんなは黒坂森の云うことが尤もだと思って、もう少し・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・そして、 「おや、どうかしたのかい。たいへん顔色が悪いよ」と言いながら棚から薬の箱をおろしました。 「おっかさん、僕ね、もじゃもじゃの鳥の子のおぼれるのを助けたんです」とホモイが言いました。 兎のお母さんは箱から万能散を一服出し・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・と云いながら、一生けん命糸をたぐり出して、それはそれは小さな二銭銅貨位の網をかけました。 夜あけごろ、遠くから蚊がくうんとうなってやって来て網につきあたりました。けれどもあんまりひもじいときかけた網なので、糸に少しもねばりがなくて、蚊は・・・ 宮沢賢治 「蜘蛛となめくじと狸」
・・・ 洋傘直しは帽子をとり銀貨と銅貨とを受け取ります。「ありがとうございます。剃刀のほうは要りません。」「どうしてですか。」「お負けいたしておきましょう。」「まあ取って下さい。」「いいえ、いただくほどじゃありません。」・・・ 宮沢賢治 「チュウリップの幻術」
・・・ どうか皆さま、お元気に。よろこびが、あなたの前途にみちているように。苦しみと悲しみがあなたを囲んだとき、涙の浮ぶ瞳ながらやはり太陽はその涙にきらめいているように。人間の美こそ、女性の美の最高のものです。〔一九四八年四月〕・・・ 宮本百合子 「新しい卒業生の皆さんへ」
・・・子供たちも「忽ちこれに同化されて歌い始めた。労働の歌が労働するものの心を融合し統一した」と作者は楽観している。 師範卒業生佐田の安直ぶりが、階級的発展の端緒としての意味をもつ未熟さ、薄弱さとして高みから扱われているのではなく、作者須井自・・・ 宮本百合子 「一連の非プロレタリア的作品」
出典:青空文庫