・・・体格の逞しい谷村博士は、すすめられた茶を啜った後、しばらくは胴衣の金鎖を太い指にからめていたが、やがて電燈に照らされた三人の顔を見廻すと、「戸沢さんとか云う、――かかりつけの医者は御呼び下すったでしょうな。」と云った。「ただ今電話を・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・この二つを同義語とするものは恐らく女人の俳優的才能を余りに軽々に見ているものであろう。 礼法 或女学生はわたしの友人にこう云う事を尋ねたそうである。「一体接吻をする時には目をつぶっているものなのでしょうか? それとも・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・芸術的の衝動は性欲に加担し、道義的の衝動は聖書に加担しました。私の熱情はその間を如何う調和すべきかを知りませんでした。而して悩みました。その頃の聖書は如何に強烈な権威を以て私を感動させましたろう。聖書を隅から隅にまですがりついて凡ての誘惑に・・・ 有島武郎 「『聖書』の権威」
・・・ こういう道義的アナーキズム時代における人の品行は時代の背景を斟酌して考慮しなければならない。椿岳は江戸末季の廃頽的空気に十分浸って来た上に、更にこういう道義的アナーキズム時代に遭逢したのだから、さらぬだに世間の毀誉褒貶を何の糸瓜とも思・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・子供が彼等を見、彼等に対する考えこそ、人間として、一番高貴な、同情深い、且つ道義的のものではないでしょうか。 たとえば、屠殺場へ引かれて行く、歩みの遅々として進まない牛を見た時、或は多年酷使に堪え、もはや老齢役に立たなくなった、脾骨の見・・・ 小川未明 「天を怖れよ」
・・・ 支配下に強圧されて、職業意識にしかのみ生きない教師等が、なんで、児童を善く感化し、これに、真理と道義の観念を与えることができましょう。 私達は、知りつゝ出来ずにいるが、児童の教育に、その先生を選択しなければならぬごとく、書物を求む・・・ 小川未明 「読むうちに思ったこと」
・・・敗戦、戦災、失業、道義心の頽廃、軍閥の横暴、政治の無能。すべて当然のことであり、誰が考えても食糧の三合配給が先決問題であるという結論に達する。三歳の童子もよくこれを知っているといいたいところである。円い玉子はこのように切るべきだと、地球が円・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・綿入り二枚分と、胴着と襦袢……赤んぼには麻の葉の模様を着せるものだそうだから」……彼女は枕元で包みをひろげて、こう自分に言って聞かせた。「そうかねえ……」と、自分は彼女のニコニコした顔と紅い模様や鬱金色の小ぎれと見較べて、擽ったい気持を・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・今年は胴着を作って入れておいたが、胴着は着物と襦袢の間に着るものです。じかに着てはいけません。―― 津枝というのは母の先生の子息で今は大学を出て医者をしていた。が、かつて堯にはその人に兄のような思慕を持っていた時代があった。 堯は近・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ところが先生僕と比較すると初から利口であったねエ、二月ばかりも辛棒していたろうか、或日こんな馬鹿気たことは断然止うという動議を提出した、その議論は何も自からこんな思をして隠者になる必要はない自然と戦うよりか寧ろ世間と格闘しようじゃアないか、・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
出典:青空文庫