・・・ おはまからこれだけの言を聞いたばかりで、省作はもう全身の神経に動揺を感じた。この時もはや省作は深田の婿でなくなって、例の省作の事であるから、それを俄かに行為の上に現わしては来ないが、わが身の進転を自ら抑える事のできない傾斜の滑道にはい・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・いちじくの青い広葉はもろそうなものだが、これを見ていると、何となくしんみりと、気持ちのいいものだから、僕は芭蕉葉や青桐の葉と同様に好きなやつだ。しかもそれが僕の仕事をする座敷からすぐそばに見える。 それに、その葉かげから、隣りの料理屋の・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・かつ高価を支払われて外国へ流出したものも沢山あるらしいから、追付けクルトやズッコのお仲間が日本人の余り知らない傑作の複製を挿図した椿岳画伝を出版して欧洲読画界を動揺する事がないとも限られない。「俺の画は死ねば値が出る」と傲語した椿岳は苔下に・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・六十三という条、実はマダ還暦で、永眠する数日前までも頭脳は明晰で、息の通う間は一行でも余計に書残したいというほど元気旺勃としていた精力家の易簀は希望に輝く青年の死を哀むと同様な限りない恨事である。・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・一同はワヤ/\ガヤ/\して満室の空気を動揺し、半分黒焦げになったりポンプの水を被ったりした商品、歪げたり破れたりしたボール箱の一と山、半破れの椅子や腰掛、ブリキの湯沸し、セメント樽、煉瓦石、材木の端片、ビールの空壜、蜜柑の皮、紙屑、縄切れ、・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・これに対して、あなたがた同様、私たちが、黙っているものですか。」と、年とったたかはいいました。 空を暗くするまでしげったひのきの木は、黙って、たかのいうことを聞いていました。「おい、兄弟、もうよく話がわかった。俺たちは、みんな人間の・・・ 小川未明 「あらしの前の木と鳥の会話」
・・・ この言葉は、みんなに少なからず動揺をあたえました。なかには、また、くすくす笑うものさえありました。しかし、先生が、笑うものをおしかりなさったので、すぐに静かになったけれど、小田は、そのとき、みんなから、なんだか侮辱されたような気がして・・・ 小川未明 「笑わなかった少年」
・・・しかしこの船宿は、かの待合同様な遊船宿のそれではない、清国の津々浦々から上って来る和船帆前船の品川前から大川口へ碇泊して船頭船子をお客にしている船乗りの旅宿で、座敷の真中に赤毛布を敷いて、欅の岩畳な角火鉢を間に、金之助と相向って坐っているの・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・のままの姿を残し、堀辰雄氏、室生犀星氏、佐藤春夫氏その他多くの作家が好んでこの油屋へ泊りに来て、ことに堀辰雄氏などは一年中の大半をここの大名部屋か小姓の部屋かですごしていたくらい、伊豆湯ヶ島の湯本館と同様、作家たちに好かれた旅館であった。・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・途端に、どういうものか男の顔に動揺の色が走った。そして、ひきつるような苦痛の皺があとに残ったので、びっくりして男の顔を見ていると、男はきっとした眼で私をにらみつけた。 しかし、彼はすぐもとの、鈍重な、人の善さそうな顔になり、「肺やっ・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫