・・・それが右からも左からも、あるいは彼の辮髪を掃ったり、あるいは彼の軍服を叩いたり、あるいはまた彼の頸から流れている、どす黒い血を拭ったりした。が、彼の頭には、それを一々意識するだけの余裕がない。ただ、斬られたと云う簡単な事実だけが、苦しいほど・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
ある雪上りの午前だった。保吉は物理の教官室の椅子にストオヴの火を眺めていた。ストオヴの火は息をするように、とろとろと黄色に燃え上ったり、どす黒い灰燼に沈んだりした。それは室内に漂う寒さと戦いつづけている証拠だった。保吉はふ・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・そうしてその四角な穴の中から、煤を溶したようなどす黒い空気が、俄に息苦しい煙になって、濛々と車内へ漲り出した。元来咽喉を害していた私は、手巾を顔に当てる暇さえなく、この煙を満面に浴びせられたおかげで、殆息もつけない程咳きこまなければならなか・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・「そうだす」と言っているのか、「そうどす」と言っているのか、はっきり区別がつかない。 字で書けば、「だす」よりも「どす」の方が、音がどぎついように思われる。「どす黒い」とか「長どす道中」とか「どすんと尻餅ついた」とか、どぎつくて物騒で殺・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・ 軍服が、どす黒い血に染った。 坂本はただ、「うう」と唸るばかりだった。 内地を出発して、ウラジオストックへ着き、上陸した。その時から、既に危険は皆の身に迫っていたのであった。 機関車は薪を焚いていた。 彼等は四百里ほど・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・太宰は瞬間まったくの小児のような泣きべそを掻いたが、すぐ、どす黒い唇を引きしめて、傲然と頭をもたげた。私はふっと、太宰の顔を好きに思った。佐竹は眼をかるくつぶって眠ったふりをしていた。 雨は晩になってもやまなかった。私は馬場とふたり、本・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・しかしあの大きいほうの風景のどす黒い色彩はこの人の固有のものでないと思う。小さな家のある風景がよい。 中川紀元。 いつも、もっとずっと縮めたらいいと思われる絵を、どうしてああ大きく引き延ばさなければならないかが私にはわからない。誇張の気・・・ 寺田寅彦 「昭和二年の二科会と美術院」
・・・ 明るく鮮やかであった白馬会時代を回想してみると、近年の洋画界の一面に妙に陰惨などす黒いしかもその中に一種の美しさをもったものの影が拡がって来るのを覚えるのは私ばかりではあるまい。古いドイツやスペインあたりを思わせるような空気が、最も新・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
出典:青空文庫