・・・口へは手拭を噛んで、涙を絞った。どれだけ涙が出たか、隣室の母から夜が明けた様だよと声を掛けられるまで、少しも止まず涙が出た。着たままで寝ていた僕はそのまま起きて顔を洗うや否や、未だほの闇いのに家を出る。夢のように二里の路を走って、太陽がよう・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・きのうもゆう方、君が来て呉れるというハガキを見てから、それをほところに入れたまま、ぶらぶら営所の近所まで散歩して見たんやけど、琵琶湖のふちを歩いとる方がどれほど愉快か知れん。あの狭い練兵場で、毎日、毎日、朝から晩まで、立てとか、すわれとか、・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・収容当時の様子を聴いて見ると、僕等が飛び出した川からピー堡塁に至る間に、『伏せ』の構えで死んどるもんもあったり、土中に埋って片手や片足を出しとるもんもあったり、からだが離ればなれになっとるんもあった。何れも、腹を出しとったんはあばらが白骨に・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 驕将敗を取るは車戦に由る 赤壁名と成すは火攻の為めなり 強隣を圧服する果して何の術ぞ 工夫ただ英雄を攪るに在り 『八犬伝』を読むの詩 補 姥雪与四郎・音音乱山何れの処か残燐を吊す 乞ふ死是れ生真なり・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・数ある批評のどれもが感服しないのはなかったが、ドレもこれも窮所を外れて自分の思う坪に陥ったのが一つもなかったのは褒められても淋しかった。『其面影』や『平凡』は苦辛したといっても二葉亭としては米銭の方便であって真剣でなかった。褒められても貶さ・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・わたくしはこれまで武器というものを手にした事がありませんから、あなたのお腕前がどれだけあろうとも、拳銃射撃は、わたくしよりあなたの方がお上手だと信じます。 そこでわたくしはあなたに要求します。それは明日午前十時に、下に書き記してある停車・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・残忍という事もどれ程人間というものが残忍であり得るか、残忍の限りを盟した時、眼を掩ってそれ以上の残忍は為し得ないという時そこに本当の人間性はあり得る。 私は如何なる場合にも中途半端の虚偽を憎む。現代の多くの人々はこの中途半端に居る。しか・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・ 私達は、黒人に対する米人の態度を見、また印度の殖民地に於ける英人の政策を熟視して、彼等が真に人類を愛する信念の何れ程迄に真実であるかを疑わなければならないが、そして、このたびの軍備縮小などというが如き、其の実、戦争を予期しての企てに対・・・ 小川未明 「芸術は革命的精神に醗酵す」
・・・そして其れ等の何れの芸術に於ても此を一貫するものは誠実であると思う。此の色彩的な、音楽的な世界に立って楽しむという心、そこにも我等の胸に沁み入る誠実と淋しき喜悦とがある。又或るものは洗礼を受くべき暗黒轟々として刻々に破壊に対して居るという事・・・ 小川未明 「絶望より生ずる文芸」
・・・日光の射すのは往来に向いた格子附の南窓だけで、外の窓はどれも雨戸が釘着けにしてある。畳はどんなか知らぬが、部屋一面に摩切れた縁なしの薄縁を敷いて、ところどころ布片で、破目が綴くってある。そして襤褸夜具と木枕とが上り口の片隅に積重ねてあって、・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫