・・・やがて、どれだけ時間がたったでしょうか、中華料理屋の客席の灯が消え、歯医者の二階の灯が消え、電車が途絶え、ボートの影も見えなくなってしまっても、私はそこを動きませんでした。夜の底はしだいに深くなって行った。私は力なく起ち上って、じっと川の底・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・見渡すと、居並ぶ若い娘たちは何れもしるこやぜんざいなど極めて普通の、この場に適しいものを食べている。私一人だけが若い娘たちの面前で、飯事のようにお櫃を前にして赧くなっているのだ。クスクスという笑い声もきこえた。Kはさすがに笑いはしなかったが・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・ 何れにしても、彼等は尻尾を出さなければ必ず出世できるという幸運を約束されているという点で、一致していた。後年私は、新聞紙上で、軍人や官吏が栄転するたびに、大正何年組または昭和何年組の秀才で、その組のトップを切って栄進したという紹介記事・・・ 織田作之助 「髪」
・・・まで、足かけ五年間、鎌倉の山の中の古寺の暗い一室で、病気、不幸、災難、孤独、貧乏――そういったあらゆる惨めな気持のものに打挫かれたような生活を送っていたのだったが、それにしても、実際の牢獄生活と較べてどれほど幸福な、自由な、静かな恵まれた生・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・ 弟達が来ますと、二人に両方の手を握らせて、暫くは如何にも安心したかの様子でしたが、末弟は試験の結果が気になって落ちつかず、次弟は商用が忙しくて何れも程なく帰ってしまいました。 二十日の暮れて間もない時分、カツカツとあわただしい下駄・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ 一本の燐寸の火が、焔が消えて炭火になってからでも、闇に対してどれだけの照力を持っていたか、彼ははじめて知った。火が全く消えても、少しの間は残像が彼を導いた―― 突然烈しい音響が野の端から起こった。 華ばなしい光の列が彼の眼の前・・・ 梶井基次郎 「過古」
一 秋の中過、冬近くなると何れの海浜を問ず、大方は淋れて来る、鎌倉も其通りで、自分のように年中住んで居る者の外は、浜へ出て見ても、里の子、浦の子、地曳網の男、或は浜づたいに往通う行商を見るばかり、都人士ら・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・『上田、自慢するなッ』と一人の少年が叫んだ。 豊吉はつッと立ち上がって、上田と呼ばれた少年の方を向いて眉に皺を寄せて目を細くしてまぶしそうに少年の顔を見た。そしてそのそばに往った。『どれ、今のをお見せなさい、』と豊吉は少年の顔を・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ そして見ると、自分の周囲には何処かに悲惨の影が取巻ていて、人の憐愍を自然に惹くのかも知れない。自分の性質には何処かに人なつこいところがあって、自と人の親愛を受けるのかもしれない。 何れにせよ、自分の性質には思い切って人に逆らうこと・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ ともかくもこの戯曲は純情がどれだけの作を産み得るかの指標といっていいだろう。それを取り去れば、この作はつまらないものだ。だから反言や、風刺や、暴露の微塵もないこの作が甘く見えるのはもっともである。 人間が読んで、殊に若い人たちが読・・・ 倉田百三 「『出家とその弟子』の追憶」
出典:青空文庫