・・・々にもなつかしい親もあろう、可愛らしい妻子もあろう、親しい交わりの友もあろう、身を任せた主君もあろう、それであッてこのありさま,刃の串につんざかれ、矢玉の雨に砕かれて異域の鬼となッてしまッた口惜しさはどれほどだろうか。死んでも誰にも祭られず・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・「あなたの光線は、威力はどれほどのものですか。」 梶が栖方に訊ねてみようかと思ったのも、何かこのとき、ふと気かがりなことがあって、思いとまった。「ドイツの使い始めたV一号というのも、初めは少年が発明したとかいうことですね。何んで・・・ 横光利一 「微笑」
・・・みんな小さい花でございまして、どれもぱっと開いてしまうということはないのでございます。それですから薫も強くはございません。そのくせわたくしの物にはなんでもその花の香が移っているのでございます。ハンケチも、布団も、読んでいる本も、みんなその薫・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・ マアどれほど親切で、美しくッて、好い方だったか、僕は話せない位ですよ。話せればあなただってどんなに好におなんなさるか! 非常に僕を可愛がって下すったことを思い出してさえ、なんだか涙が眼に一杯になります。モウ先のことだけれど、きのうきょ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・ことに私は彼のためにどれだけ物的の犠牲を払ってやりましたか。物的価値に執する彼の態度への悪感から私はむしろそういう尽力を避けていました。そうしてこの私の冷淡は彼の態度をますます浅ましくしました。ここでもまた私は責めを脱れる事ができないのです・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・「我することをば何れをも能きこととばかり思ふ」人である。こういう人は下の者に智慧を盗まれる。というのは、おだてにのって、自分で善悪の判断をすることができなくなるのである。したがってますますばかになる。 もっとも、家来というものは、そうい・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・却説去廿七日の出来事は実に驚愕恐懼の至に不堪、就ては甚だ狂気浸みたる話に候へ共、年明候へば上京致し心許りの警衛仕度思ひ立ち候が、汝、困る様之事も無之候か、何れ上京致し候はば街頭にて宣伝等も可致候間、早速返報有之度候。新年言志・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫