・・・私は眠ってしまったのですもの。どんなことを言ったか、知りはしないわ」 妙子は遠藤の胸に凭れながら、呟くようにこう言いました。「計略は駄目だったわ。とても私は逃げられなくってよ」「そんなことがあるものですか。私と一しょにいらっしゃ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・私の足がどんな所に立っているのだか、寒いのだか、暑いのだか、すこしも私には分りません。手足があるのだかないのだかそれも分りませんでした。 抜手を切って行く若者の頭も段々小さくなりまして、妹との距たりが見る見る近よって行きました。若者の身・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・しかしフレンチの方では、神聖なる義務を果すという自覚を持っているのだから、奥さんがどんなに感じようが、そんな事に構まってはいられない。 ところが不思議な事には、こういう動かすべからざる自覚を持っているくせに、絶えず体じゅうが細かく、不愉・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・“Je ne permettrais jamais, que ma fille s'adonnt une occupation si cruelle.”「宅の娘なんぞは、どんなことがあっても、あんな無慈悲なことをさせようとは思いま・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・今やどんな僻村へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。 我々青年を囲繞する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行わたっている・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・「串戯じゃない。何という人だというに、」「あれ、名なんぞどうでもよろしいじゃありませんか。お逢いなされば分るんですもの。」「どんな人だよ、じれったい。」「先方もじれったがっておりましょうよ。」「婦人か。」 と唐突に尋・・・ 泉鏡花 「縁結び」
・・・苦しむのが人生であるとは、どんな哲学宗教にもいうてはなかろう。しかも実際の人生は苦しんでるのが常であるとはいかなる訳か。 五十に近い身で、少年少女一夕の癡談を真面目に回顧している今の境遇で、これをどう考えたらば、ここに幸福の光を発見する・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・「鳥渡聴くが、光弾の破裂した時はどんなものだ?」「三四尺の火尾を曳いて弓形に登り、わが散兵線上に数個破裂した時などは、青白い光が広がって昼の様であった。それに照らされては、隠れる陰がない。おまけに、そこから敵の砲塁までは小川もなく、・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・この噂の虚実は別として、この新聞を見た若い美術家の中には椿岳という画家はどんな豪い芸術家であったろうと好奇心を焔やしたものもまた決して少なくないだろう。椿岳は芳崖や雅邦と争うほどな巨腕ではなかったが、世間を茶にして描き擲った大津絵風の得意の・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 何しろ社交上の礼儀も何も弁えない駈出しの書生ッぽで、ドンナ名士でも突然訪問して面会出来るものと思い、また訪問者には面会するのが当然で、謝絶するナゾとは以ての外の無礼と考えていたから、何の用かと訊かれてムッとした。「何の用事もありま・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
出典:青空文庫