・・・そうして、あの不貞な女を、辱しめと云う辱しめのどん底まで、つき落してしまいたかった。そうすれば己の良心は、たとえあの女を弄んだにしても、まだそう云う義憤の後に、避難する事が出来たかも知れない。が、己にはどうしても、そうする余裕が作れなかった・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・長い説教ではなかったが神の愛、貧窮の祝福などを語って彼がアーメンといって口をつぐんだ時には、人々の愛心がどん底からゆすりあげられて思わず互に固い握手をしてすすり泣いていた。クララは人々の泣くようには泣かなかった。彼女は自分の眼が燃えるように・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・悲しみのどん底にいるんだぞ。この際笑いでもした奴は敵に内通した謀叛人としてみんなで制裁するからそう思え。九頭竜も堂脇も……今あけます、ちょっと待ってください……九頭竜も堂脇もたまらない俗物だが、政略上向かっ腹を立てて事をし損じないようにみん・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・予も腹のどん底を白状すると、お繁さんから今年一月の年賀状の次手に、今年の夏も是非柏崎へお越しを願いたい。今一度お目に掛って信仰上のお話など伺いたく云々とあったに動かされてきたと云ってもよい位だ。其に来て見れば、お繁さんが居ないのだから……。・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・そして、私達が、まだまだどん底の生活をして来たとは思われない。のみならず仮りに、私達だけが、仕合せになったとしても、永久に安心できることだろうか。この観念は、いつしか、私をして、階級戦の必然をすら教えてやるに至ったのでした。 そして、ま・・・ 小川未明 「貧乏線に終始して」
・・・姉夫婦も貧乏のどん底だった。「百円はおろか五円の金もおまへんわ」 と、わざと大阪弁をつかって、ありていに断ると、姉の亭主は、「――そうか、そりゃ、残念だ。ここに百円あれば、ぼろい話があるんだが……」 と、いかにもがっかりした・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・二人でばかにする……この不用意な言葉が、私の腹のどん底へ、重い弾丸を投じたものだ。なるほどそんな風に考えたのか、火鉢の傍を離れて自分はせっせと復習をしている、母や妹たちのことを悲しく思いだしているところへ、親父は大胡座を掻いて女のお酌で酒を・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・それですからもし、お幸を連れて逃げでもすれば、行く先どんな苦労をするかも知れず、それこそ女難のどん底に落ちてしまうと、一念こうなりましてはかけおちもできなくなったのでございます。 それで四苦八苦、考えに考えぬいた末が、一人で土地を逃げる・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・作家の、おそかれ、早かれ、必ず通らなければならぬどん底。これは、ジャアナリストのあいだの黙契にて、いたしかたございませぬ。二十円同封。これは、私、とりあえずおたてかえ申して置きますゆえ、気のむいたとき三、四枚の旅日記でも、御寄稿下さい。この・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ 教養と、理智と、審美と、こんなものが私たちを、私を、懊悩のどん底の、そのまた底までたたき込んじゃった。十郎様。この度の、全く新しい小さな愛人のために、およろこび申し上げます。笑われても殺されてもいい、一生に一度のおねがい、お医者さまに・・・ 太宰治 「古典風」
出典:青空文庫