・・・火を点じて後、窓を展きて屋外の蓮池を背にし、涼を取りつつ机に向いて、亡き母の供養のために法華経ぞ写したる。その傍に老媼ありて、頻に針を運ばせつ。時にかの蝦蟇法師は、どこを徘徊したりけむ、ふと今ここに来れるが、早くもお通の姿を見て、眼を細め舌・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・五ツになるのと七ツになる幼きものどもが、わがままもいわず、泣きもせず、おぼつかない素足を運びつつ泣くような雨の中をともかくも長い長い高架の橋を渡ったあわれさ、両親の目には忘れる事のできない印象を残した。 もう家族に心配はいらない。これか・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・と、奥へ注意してから、「女房は弱いし、餓鬼は毎日泣きおる、これも困るさかいなア。」「それはお互いのことだア。ね」と、僕が答えるとたん、から紙が開いて、細君が熱そうなお燗を持って出て来たが、大津生れの愛嬌者だけに、「えろうお気の毒さま・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・島田の許へ連れてって詫まらせたが、オイオイ声を揚げて泣き出した。」 U氏がコンナ事でYを免すような口吻があるのが私には歯痒かった。Yは果してU氏の思うように腹の底から悔悛めたであろう乎。この騒ぎが持上ってる最中でもYは平気な顔をして私の・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・女房はその自分の姿を見て、丁度他人を気の毒に思うように、その自分の影を気の毒に思って、声を立てて泣き出した。 きょうまで暮して来た自分の生涯は、ぱったり断ち切られてしまって、もう自分となんの関係もない、白木の板のようになって自分の背後か・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ これをきくと、年子は、前後をわきまえず、そこに泣きくずれました。やがて、北国の夜はしんとしました。静かなのが、たちまちあらしに変わって、吹雪が雨戸を打つ音がしました。このとき、家の内では、こたつにあたりながら、年子は、先生のお母さんと・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・ね、酔ってるものだからヒョロヒョロして、あの大きな体を三味線の上へ尻餅突いて、三味線の棹は折れる、清元の師匠はいい年して泣き出す、あの時の様子ったらなかったぜ、俺は今だに目に残ってる……だが、あんな元気のよかった父が死んだとは、何だか夢のよ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ すると、子供が泣きながら、こう言いました。「お爺さん。御免よ。若し綱が切れて高い所から落っこちると、あたい死んじまうよ。よう。後生だから勘弁してお呉れよ。」 いくら子供がこう言っても、爺さんは聞きませんでした。そうして、唯早く・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・暫らくすると、女の泣き声がきこえた。男はぶつぶつした声でなだめていた。しまいには男も半泣きの声になった。女はヒステリックになにごとか叫んでいた。 夕闇が私の部屋に流れ込んで来た。いきなり男の歌声がした。他愛もない流行歌だった。下手糞なの・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ところが、その通知と一緒に、田中喜美子様と、亡き姉に宛てた手紙が、ひょっこり配達されていた。アパートの中庭では、もう木犀の花が匂っていた。 死んでしまった姉に思いがけなく手紙が舞い込んで来るなど、まるで嘘のような気がした。姉が死んだのは・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
出典:青空文庫