・・・しっかりおしなさい。遠藤です」 妙子はやっと夢がさめたように、かすかな眼を開きました。「遠藤さん?」「そうです。遠藤です。もう大丈夫ですから、御安心なさい。さあ、早く逃げましょう」 妙子はまだ夢現のように、弱々しい声を出しま・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 御覧なさい私たちは見る見る沖の方へ沖の方へと流されているのです。私は頭を半分水の中につけて横のしでおよぎながら時々頭を上げて見ると、その度ごとに妹は沖の方へと私から離れてゆき、友達のMはまた岸の方へと私から離れて行って、暫らくの後には・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・事によったら御気分でもお悪くおなりなさいますような事が。」奥さんはいよいよたじろきながら、こう弁明し掛けた。 フレンチの胸は沸き返る。大声でも出して、細君を打って遣りたいようである。しかし自分ながら、なぜそんなに腹が立つのだか分からない・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・「後で私を殺しても可いから、もうちと辛抱なさいよ。」「お稲さん。」「ええ。」となつかしい低声である。「僕は大空腹。」「どこかで食べて来た筈じゃないの。」「どうして貴方に逢うまで、お飯が咽喉へ入るもんですか。」「ま・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・「いけないよ、家へ行ってからでも見にこられるからあとにしなさい」「ふたりで見にきようねィ、あァちゃん」 姉妹はもとのとおりに二つの頭をそろえて向き直った。もう家へは二、三丁だ。背の高い珊瑚樹の生垣の外は、桑畑が繁りきって、背戸の・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・で娘が云うには「一寸一寸、今の坊さんはネ、風呂敷包の中に小判を沢山皮の袋に入れたのをもって居らっしゃるのを見つけたんですよ、だから、御つれもないんだから誰も知る人もありませんから殺してあの御金をおとりなさいよ」とささやいたので思いがけない悪・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・それも真面目な依頼ではなく、時々西洋人が来て、応対に困ることがあるので、「おあがんなさい」とか、「何を出しましょう」とか、「お酒をお飲みですか、ビールをお飲みですか」とか、「芸者を呼びましょうか」とか、「大相上機嫌です、ね」とか、「またいら・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・その時分私の親類の或るものが『書生気質』を揃えて買って置きたいからって私に買ってくれといった時、私はあんなツマラヌものはおよしなさい、アレよりは円朝の『牡丹燈籠』の方が面白いからといって代りに『牡丹燈籠』を買ってやった事がある。『牡丹燈籠』・・・ 内田魯庵 「明治の文学の開拓者」
・・・そこで私が先日東京へ出ましたときに、先生が「ドウです内村君、あなたは『基督教青年』をドウお考えなさいますか」と問われたから、私は真面目にまた明白に答えた。「失礼ながら『基督教青年』は私のところへきますと私はすぐそれを厠へ持っていって置いてき・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・あなたがお先へお打ちなさい。」「ようございます。」 二人の交えた会話はこれだけであった。 女学生ははっきりした声で数を読みながら、十二歩歩いた。そして女房のするように、一番はずれの白樺の幹に並んで、相手と向き合って立った。 ・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
出典:青空文庫