・・・もし東京に残って居る鴎外の昔の敵がこの文を読んだなら、彼等はあるいは予を以て幽霊となし、我言を以て怨しいという声となすかも知れない。しかしそれは推測を誤って居る。敵が鴎外と云う名を標的にして矢を放つ最中に、予は鴎外という名を署する事を廃めた・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・人は社会を成す動物だ。樵夫は樵夫と相交って相語る。漁夫は漁夫と相交って相語る。予は読書癖があるので、文を好む友を獲て共に語るのを楽にして居た。然るに国民之友の主筆徳富猪一郎君が予の語る所を公衆に紹介しようと思い立たれて、丁度今猪股君が予に要・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・しかし遣りようでは、激成するというような傾きを生じ兼ねない。その候補者はどんな人間かと云うと、あらゆる不遇な人間だね。先年壮士になったような人間だね。」 茶を飲んで席を起つものがちらほらある。 木村は隠しから風炉鋪を出して、弁当の空・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・「鳥はどうしなさりまするかの。」「飯の菜がないのか。」「茄子に隠元豆が煮えておりまするが。」「それで好い。」「鳥は。」「鳥は生かして置け。」「はい。」 婆あさんは腹の中で、相変らず吝嗇な人だと思った。この婆あ・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・その外、都にて園に植うる滝菜、水引草など皆野生す。しょうりょうという褐色の蜻あり、群をなして飛べり。日暮るる頃山田の温泉に着きぬ。ここは山のかいにて、公道を距ること遠ければ、人げすくなく、東京の客などは絶て見えず、僅に越後などより来りて浴す・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・棒砂糖少し持てきたりしが、煮物に使わんこと惜しければ、無しと答えぬ。茄子、胡豆など醤油のみにて煮て来ぬ。鰹節など加えぬ味頗旨し。酒は麹味を脱せねどこれも旨し。燗をなすには屎壺の形したる陶器にいれて炉の灰に埋む。夕餉果てて後、寐牀のしろ恭しく・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・此の恐るべき文学の包括力が、マルクスをさえも一個の単なる素材となすのみならず、宇宙の廻転さえも、及び他の一切の摂理にまで交渉し得る能力を持っているとするならば、われわれの文学に対する共通の問題は、一体、いかなる所にあるのであろうか。それは、・・・ 横光利一 「新感覚派とコンミニズム文学」
・・・言い訳が立つからといって、なすべき事をしないのはやはりいい事ではありません。たとえ仕事に全精力を集中する時でも「人」としてふるまうことを忘れてはならない。それができないのは弱いからです。愛が足りないからです。 私は自分の仕事のために愛す・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・それは Aesthet として徹底する道であるとともに、またさらにより高い世界へ転向する可能性を激成する道である。けれども彼にはそれがない。彼の製作はいかにも突き入って行く趣を欠いている。すべてが核心に触れていない。 このような三人の相・・・ 和辻哲郎 「転向」
藤村は非常に個性の強い人で、自分の好みによる独自の世界というふうなものを、おのずから自分の周囲に作り上げていた。衣食住のすみずみまでもその独特な好みが行きわたっていたであろう。酒粕に漬けた茄子が好きだというので、冬のうちから、到来物の・・・ 和辻哲郎 「藤村の個性」
出典:青空文庫