・・・ 僕は君がしばらく故郷の部隊にいるうちに、ひどく東北訛りの強くなったのに驚き、かつは呆れた。 ざッざッざッと列は僕の眼前を通過する。君はその列にはまるで無関心のように、やたらにしゃべる。それは君が、僕に逢ったらまずどのような事を言っ・・・ 太宰治 「未帰還の友に」
・・・こんどはいつ御出でかと例の幡多訛りで問う。おれの事だからいつだかわからんと云ったような事を云うてザブ/\とすまし、机の上をザット片付けて革鞄へ入れるものは入れ、これでよしとヴァイオリンを出して second position の処を開けてヘ・・・ 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・隣りに言葉訛り奇妙なる二人連れの饒舌もいびきの音に変って、向うのせなあが追分を歌い始むれば甲板に誰れの持て来たものか轡虫の鳴き出したるなど面白し。甲板をあちこちする船員の靴音がコツリ/\と言文一致なれば書く処なり。夢魂いつしか飛んで赴く処は・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・マイヤーの講義はザクセン訛りがひどく「小さい」をグライン「戦争」をグリークという調子で、どうも分りにくくて困った。 ネルンストの「物理化学」もひやかしに一、二度聴いたことがあったが、西洋人にしては脊の低いずんぐりした体格で、それが高い聴・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
・・・洗髪に黄楊の櫛をさした若い職人の女房が松の湯とか小町湯とか書いた銭湯の暖簾を掻分けて出た町の角には、でくでくした女学生の群が地方訛りの嘆賞の声を放って活動写真の広告隊を見送っている。 今になって、誰一人この辺鄙な小石川の高台にもかつては・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・と車掌が地方訛りで蛇足を加えた。 真直な往来の両側には、意気な格子戸、板塀つづき、磨がらすの軒燈さてはまた霜よけした松の枝越し、二階の欄干に黄八丈に手拭地の浴衣をかさねた褞袍を干した家もある。行書で太く書いた「鳥」「蒲焼」なぞの行燈があ・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・其の言語を聞くに多くは田舎の訛りがある。 ここに最奇怪の念に堪えなかったのは、其等無頼の徒に対して給仕女が更に恐るる様子のないことであった。殊にお民は寧心やすい様子で、一人一人に其姓名を挙げ、「誰々さんとはライオン時代からよく知っている・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・と下女は肥後訛りの返事をする。「じゃ、ともかくもその栓を抜いてね。罎ごと、ここへ持っておいで」「ねえ」 下女は心得貌に起って行く。幅の狭い唐縮緬をちょきり結びに御臀の上へ乗せて、絣の筒袖をつんつるてんに着ている。髪だけは一種異様・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 芭蕉も初めは菖蒲生り軒の鰯の髑髏のごとき理想的の句なきにあらざりしも、一たび古池の句に自家の立脚地を定めし後は、徹頭徹尾記実の一法に依りて俳句を作れり。しかもその記実たる自己が見聞せるすべての事物より句を探り出だすにあらず、記・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・日本というものの独自性の或る面、外来語でも何でもいつしか自国語にしてしまって、便利なように訛りさえして、日常の便利につかうところに、寧ろ示されてさえいると思えるが如何だろう。 文章のわかりやすさ、無制限に数の多い漢字を整理し、複雑な仮名・・・ 宮本百合子 「今日の文章」
出典:青空文庫