・・・されど心の眼さときものは肉に倚らずして直に愛の隠るる所を知るなり。聖処女の肉によらずして救主を孕み給いし如く、汝ら心の眼さときものは聖霊によりて諸善の胎たるべし。肉の世の広きに恐るる事勿れ。一度恐れざれば汝らは神の恩恵によりて心の眼さとく生・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・必ずしも白蓮に観音立ち給い、必ずしも紫陽花に鬼神隠るというではない。我が心の照応する所境によって変幻極りない。僕が御幣を担ぎ、そを信ずるものは実にこの故である。 僕は一方鬼神力に対しては大なる畏れを有っている。けれどもまた一方観音力の絶・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・き乳児を残して、日ごとに、件の門の前なる細路へ、衝とその後姿、相対える猛獣の間に突立つよと見れば、直ちに海原に潜るよう、砂山を下りて浜に出て、たちまち荒海を漕ぎ分けて、飛ぶ鴎よりなお高く、見果てぬ雲に隠るるので。 留守はただ磯吹く風に藻・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・光代は打ち驚きて振り返りしが、隠るることもならずほどよく挨拶すれば、いい景色ではありませぬか。あなた、湖水の方へ行ってごらんなされましたかと聞く。いえまだ、実は今宿を出ましたばかりで、と気を置けば言葉もすらりとは出でず、顔もおのずから差し俯・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・かれは意にもなく手近の小枝を折り、真紅の葉一つを摘みて流れに落とせば、早瀬これを浮かべて流れゆくをかれは静かにながめて次の橋の陰に隠るるを待つらんごとし。 この時青年の目に入りしはかれが立てる橋に程近き楓の木陰にうずくまりて物洗いいたる・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・大隠は朝市に隠る、と。」先生は少し酔って来たようである。「へへ、」大将はあいまいに笑った。「まあ、ご隠居で。」「手きびしい。一つ飲み給え。」「もうたくさん。」大将は会釈をして立ち上りかけた。「それでは、これで失礼します。」「・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・去れど冷やかに日落ちて、月さえ闇に隠るる宵を思え。――ふる露のしげきを思え。――薄き翼のいかばかり薄きかを思え。――広き野の草の陰に、琴の爪ほど小きものの潜むを思え。――畳む羽に置く露の重きに過ぎて、夢さえ苦しかるべし。果知らぬ原の底に、あ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・乱を避くる領内の細民が隠るる場所もある。後ろは切岸に海の鳴る音を聞き、砕くる浪の花の上に舞い下りては舞い上る鴎を見る。前は牛を呑むアーチの暗き上より、石に響く扉を下して、刎橋を鉄鎖に引けば人の踰えぬ濠である。 濠を渡せば門も破ろう、門を・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ もとより下士の輩、悉皆商工に従事するには非ざれども、その一部分に行わるれば仲間中の資本は間接に働をなして、些細の余財もいたずらに嚢底に隠るることなく、金の流通忙わしくして利潤もまた少なからず。藩中に商業行わるれば上士もこれを傍観するに・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
出典:青空文庫