・・・悲しい哉、老いの筋骨亀縮して手足十分に伸び申さず、わななきわななき引きしぼって放ちたる矢の的にはとどかで、すぐ目前の砂利の上にぱたりぱたりと落ちる淋しさ、お察し被下度候。南無八幡! と瞑目して深く念じて放ちたる弦は、わが耳をびゅんと撃ちて、・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・(南無大師遍照金剛というのを繰返し繰返し唱えたことも想い出す。考えてみるとそれはもう五十年の昔である。 三十年ほど前にはH博士の助手として、大湯間歇泉の物理的調査に来て一週間くらい滞在した。一昼夜に五、六回の噴出を、色々な器械を使って観・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・「南無三、好事魔多し」と髯ある人が軽く膝頭を打つ。「刹那に千金を惜しまず」と髯なき人が葉巻の飲み殻を庭先へ抛きつける。隣りの合奏はいつしかやんで、樋を伝う雨点の音のみが高く響く。蚊遣火はいつの間にやら消えた。「夜もだいぶ更けた」・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・たいという未来の大願を成就したい、と思うて、処々経めぐりながら終に四国へ渡った、ここには八十八個所の霊場のある処で、一個所参れば一人喰い殺した罪が亡びる、二個所参れば二人喰い殺した罪が亡びるようにと、南無大師遍照金剛と吠えながら駈け廻った、・・・ 正岡子規 「犬」
・・・ 南無疾翔大力、南無疾翔大力。 みなの衆しばらくゆるりとやすみなされ。」 いちばん高い木の黒い影が、ばたばた鳴って向うの低い木の方へ移ったようでした。やっぱりふくろうだったのです。 それと同時に、林の中は俄かにばさばさ羽の音・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・七十歳だった老人は白髯をしごきながら炉ばたで三人の息子と気むずかしく家事上の話をして、大きい音をたてて煙管をはたき、せきばらいしながら仏壇の前へ来ると、そこに畳んである肩衣をちょいとはおって、南無、南無、南無と仏壇をおがんだ。兄の嫁にあたる・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
・・・まして、いわんや、フランスがえりの梶なる男が、青畳の上にころがって官能的にこの世の力を悦びながら「南無、天知、物神、健かにましまし給え」と随喜する、その神々の健全なりし時代の日本的感情の中に於ておや。 梶は、日本人の今日の常識にとってさ・・・ 宮本百合子 「「迷いの末は」」
出典:青空文庫