・・・けれども、こうして手短かに語ると、さして大きな難儀も無く、割に運がよく暮して来た人間のようにお思いになるかも知れませんが、人間の一生は地獄でございまして、寸善尺魔、とは、まったく本当の事でございますね。一寸の仕合せには一尺の魔物が必ずくっつ・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・そのために、思わぬ難儀が振りかかって来た事もありますが、しかし、駈引きして成功しても永続きはしないような気がするのです。 その時も、私は、下手な小細工をしたって仕様が無いと思って、「まっすぐに、ここさ来た」と本当の事を言ったのですが、嫁・・・ 太宰治 「嘘」
・・・あとで知ったことだけれど、生徒の姓名とその各々の出身中学校とを覚えているというのは、この教授の唯一の誇りであって、それらを記憶して置くために骨と肉と内臓とを不具にするほどの難儀をしていたのだそうである。いま僕は、こうして青扇と対座して話合っ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・私が日本酒を飲むようになったのは、高等学校時代からであったが、どうも日本酒はからくて臭くて、小さい盃でチビチビ飲むのにさえ大いなる難儀を覚え、キュラソオ、ペパミント、ポオトワインなどのグラスを気取った手つきで口もとへ持って行って、少しくなめ・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・ 疲れ切っているから難儀だが、車よりはかえっていい。胸は依然として苦しいが、どうもいたしかたがない。 また同じ褐色の路、同じ高粱の畑、同じ夕日の光、レールには例の汽車がまた通った。今度は下り坂で、速力が非常に早い。釜のついた汽車より・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・若い時分に大酒をのんで無茶な不養生をすれば頭やからだを痛めて年取ってから難儀することは明白でも、そうして自分にまいた種の収穫時に後悔しない人はまれである。 大津波が来るとひと息に洗い去られて生命財産ともに泥水の底に埋められるにきまってい・・・ 寺田寅彦 「災難雑考」
・・・ こういう認識不足の場合はいいが、認識錯誤の場合にはいろいろの難儀な結果が生じる。盗難や詐欺にかかった被害者の女師匠などが、加害者でもなんでもない赤の他人の立派なお役人を、どうでもそうだと言い張る場合などがそれである。 突発した事件・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・質だけを取扱う官衙とちがって、単なる物質でない市民乗客といったようなものを相手にする電気局は、乗客の感情まで考えなければならず、そして局の仕事が市民に及ぼす精神的効果までも問題にしなければならないから難儀であろう。 しかしこれは止むを得・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・そうしていっそう難儀なことはその根本的な無知を自覚しないでほんとうはわからないことをわかったつもりになったりあるいは第二次以下の末梢的因子を第一次の因子と誤認したりして途方もない間違った施設方策をもって世の中に横車を押そうとするもののあるこ・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・と同時に、この講演に来る前あなた方が経験された事、すなわち途中で雨が降り出して着物が濡れたとか、また蒸し暑くて途中が難儀であったとかいう意識は講演の方が心を奪うにつれて、だんだん不明暸不確実になってくる。またこの講演が終って場外に出て涼しい・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
出典:青空文庫