・・・恵子は――「そんなことでしたら、誰がなんと言おうと私を信じてもらっててもいいの!」と言った。恵子が淫売で拘留されたことがあるとか、家の裏に抜穴があるとか、もっと詳しいことが噂立った。龍介はイライラしてきた。恵子を信じていても、やはりそんなこ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・暮れから道路工事の始まっていた電車通りも石やアスファルトにすっかり敷きかえられて、橡の並み木のすがたもなんとなく見直す時だ。私は次郎と二人でその新しい歩道を踏んで、鮨屋の店の前あたりからある病院のトタン塀に添うて歩いて行った。植木坂は勾配の・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・河は数千年来層一層の波を、絶えず牧場と牧場との間を穿って下流へ送っている。なんの目的で河が流れているかは知れないが、どうしても目的がありそうである。この男等の生涯も単調な、疲労勝な労働、欲しいものがあっても得られない苦、物に反抗するような感・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・自分はただもじもじと帯上を畳んでいたが、やっと、「おばさんもみんな留守なんだそうですね」とはじめて口を聞く。「あの、今日は午過ぎから、みんなで大根を引きに行ったんですの」「どの畠へ出てるんですか。――私ちょっと行ってみましょう」・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・珈琲店で、一人ぼっちでいるなんて。お負けにクリスマスの晩だのに。わたしパリイにいた時、婚礼をした連中が料理店に這入っていたのを見たことがあるのよ。お嫁さんは腰を掛けて滑稽雑誌を見ている。お婿さんと立会人とで球を突いているというわけさ。婚礼の・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・ 物の二十年も臥せったなりのこのおばあさんは、二人のむすこが耕すささやかな畑地のほかに、窓越しに見るものはありませなんだが、おばあさんの窓のガラスは、にじのようなさまざまな色のをはめてあったから、そこからのぞく人間も世間も、普通のものと・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・偉い数学者なんだ。もちろん博士さ。世界的なんだ。いまは、数学が急激に、どんどん変っているときなんだ。過渡期が、はじまっている。世界大戦の終りごろ、一九二〇年ごろから今日まで、約十年の間にそれは、起りつつある。」きのう学校で聞いて来たばかりの・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・それをなんだと云うと、この男は世界を一周した。そこで珍らしい人物ばかり来るこの店でさえ、珍らしい人物として扱われるようになったのである。この男がその壮遊をしたのは、富籤に当ったのではない。また研究心に促されて起ったのでもない。この店の給仕頭・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ 「貴様はなんだ?」 かれは苦しい身を起こした。 「どうしてこの車に乗った?」 理由を説明するのがつらかった。いや口をきくのも厭なのだ。 「この車に乗っちゃいかん。そうでなくってさえ、荷が重すぎるんだ。お前は十八聯隊だナ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
およそありの儘に思う情を言顕わし得る者は知らず/\いと巧妙なる文をものして自然に美辞の法に称うと士班釵の翁はいいけり真なるかな此の言葉や此のごろ詼談師三遊亭の叟が口演せる牡丹灯籠となん呼做したる仮作譚を速記という法を用いて・・・ 著:坪内逍遥 校訂:鈴木行三 「怪談牡丹灯籠」
出典:青空文庫