・・・ラインゴルドで午食をして、ヨスチイで珈琲を飲んで、なんにするという思案もなく、赤い薔薇のブケエを買って、その外にも鹿の角を二組、コブレンツの名所絵のある画葉書を百枚買った。そのあとでエルトハイムに寄って新しい襟を買ったのであった。 晩に・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・金の力も無論なんでもない。そうかと云って彼は有りふれの社会主義者でもなければ共産党でもない。彼の説だというのに拠れば、社会の祝福が単に制度をどうしてみたところでそれで永久的に得られるものではない。ただ銘々の我慾の節制と相互の人間愛によっての・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・「お爺さんなんざ、もう楽をしても好いんですがね。」 上さんはお茶を汲んで出しながら、話の多い爺さんから、何か引出そうとするらしかった。子供はもう皆な奥で寝てしまって、二つになる末の子だけが、母親の乳房に吸いついた。勤め人の主は、晩酌・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ 嫁さんはなんでもうれしそうに、部屋のなかへ支度しはじめた。「いや、わしはかえる。ホラ、あれでな」 長野がながいあごをしゃくってみせると、深水は気がついたふうに、こんどは三吉にだけいった。「じゃ、きみあがれ」「いや、おれ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・それよりか、身に覚えなき罪科も何の明しの立てようなく哀れ刑場の露と消え……なんテいう方が、何となく東洋的なる固有の残忍非道な思いをさせてかえって痛快ではないか。青山原宿あたりの見掛けばかり門構えの立派な貸家の二階で、勧工場式の椅子テーブルの・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ さて当時は理想を目前に置き、自分の理想を実現しようと一種の感激を前に置いてやるから、一種の感激教育となりまして、知の方は主でなく、インスピレーションともいうような情緒の教育でありました。なんでも出来ると思う、精神一到何事不成というよう・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・――一九二三、七、六―― 一 若し私が、次に書きつけて行くようなことを、誰かから、「それは事実かい、それとも幻想かい、一体どっちなんだい?」と訊ねられるとしても、私はその中のどちらだとも云い切る訳に行かない。私・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 二人の士官が、ともへ帰ると、ボースンとナンバンとが呼ばれた。 彼等は行った。 船長は、横柄に収まりかえっていられる筈の、船長室にはいなくて、サロンデッキにいた。 ボースンとナンバンとが、サロンデッキに現れるや否や、彼は遠方・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・ 二人の士官が、ともへ帰ると、ボースンとナンバンとが呼ばれた。 彼等は行った。 船長は、横柄に収まりかえっていられる筈の、船長室にはいなくて、サロンデッキにいた。 ボースンとナンバンとが、サロンデッキに現れるや否や、彼は遠方・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・十月ごろから食べはじめ、三月のいわゆる菜種河豚でおしまいにするが、なんといっても正月前後がシュンだ。そこで、正月の松の内に、五、六人の友人と一隻のポンポン船で遠征し、寒さでみんなカゼを引いてしまった。しかも、河豚は二匹しか釣れず、その一匹を・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
出典:青空文庫