・・・と、小万は燗瓶を鉄瓶から出しながら、「そんなわけなんだからね。いいかね、お熊どん。私がまた後でよく言うからね、今晩はわがままを言わせておいておくれ」「どうかねえ。お頼み申しますよ」と、お熊は唐紙越しに、「花魁、こなたの御都合でねえ、よご・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・「おや。なんだ。爺いさん。そいつあいけねえぜ。」一本腕が、口に一ぱい物を頬張りながら云った。 一言の返事もせずに、地びたから身を起したのは、痩せ衰えた爺いさんである。白い鬚がよごれている。頭巾の附いた、鼠色の外套の長いのをはおってい・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・因て成るべく端折って記せば暫時の御辛抱を願うになん。 凡そ形あれば茲に意あり。意は形に依って見われ形は意に依って存す。物の生存の上よりいわば、意あっての形形あっての意なれば、孰を重とし孰を軽ともしがたからん。されど其持前の上より・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・昔は文士を bohm だなんと云ったものだが、今の流行にはもうそんな物は無い。文士や画家や彫塑家の寄合所になっていた、小さい酒店が幾つもあったが、それがたいてい閉店してしまって、そこに出入していた人達は、今では交際社会の奢った座敷に出入して・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・しかしこの趣は去年も句にならなんだのであるから強いては考えなんだ。聯想は段々広がって、舟は中流へ出る、船頭が船歌を歌う。老爺生長在江辺、不愛交遊只愛銭、と歌い出した。昨夜華光来趁我、臨行奪下一金磚、と歌いきって櫓を放した。それから船頭が、板・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・「あっ、あれなんだろう。あんなところにまっ白な家ができた」「家じゃない山だ」「昨日はなかったぞ」「兵隊さんにきいてみよう」「よし」 二疋の蟻は走ります。「兵隊さん、あすこにあるのなに?」「なんだうるさい、帰れ・・・ 宮沢賢治 「ありときのこ」
・・・ 一体何の競争をしていたのでしょう、蜘蛛は手も足も赤くて長く、胸には「ナンペ」と書いた蜘蛛文字のマークをつけていましたしなめくじはいつも銀いろのゴムの靴をはいていました。又狸は少しこわれてはいましたが運動シャッポをかぶっていました。・・・ 宮沢賢治 「蜘蛛となめくじと狸」
・・・ 一体何の競争をしていたのでしょう、蜘蛛は手も足も赤くて長く、胸には「ナンペ」と書いた蜘蛛文字のマークをつけていましたしなめくじはいつも銀いろのゴムの靴をはいていました。又狸は少しこわれてはいましたが運動シャッポをかぶっていました。・・・ 宮沢賢治 「蜘蛛となめくじと狸」
・・・絶望し、分別を失ったドイツの民衆は、それがなんであろうと目前に希望をあたえ、気休めをあたえるものにすがりつき、いかがわしい予言者だの、小政党だのが続々頭をもたげた。 ヒトラーのナチスも、はじめはまったくその一としてあらわれた。当時のドイ・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・けれども、第二のナンを用ってあらわしてある方が、もう少し私には安心な心持がし、又日本の目下の警察ではあれを許しはすまい。 ト翁が、代りに用っていいとして第二の方を書いて置いて下すったことを感謝する。 ○雨がひどく降って居る故か、・・・ 宮本百合子 「「禰宜様宮田」創作メモ」
出典:青空文庫