・・・丸顔というではなし、さりとて長い顔でもなし、ひどく煮え切らない。髪の毛は、いくぶん長く、けれども蓬髪というほどのものではなし、それかと言ってポマアドで手入れしている形跡も見えない。あたりまえの鉄縁の眼鏡を掛けている。甚だ、非印象的である。そ・・・ 太宰治 「花燭」
・・・急湍は叫喚し怒号し、白く沸々と煮えたぎって跳奔している始末なので、よほどの大声でなければ、何を言っても聞えないのです。私は、よほどの大声で、「毎日たいへんですね!」と絶叫しました。けれども、やっぱり奔湍の叫喚にもみくちゃにされて聞えないので・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・隠士が心を込むる草の香りも、煮えたる頭には一点の涼気を吹かず。……」「枕辺にわれあらば」と少女は思う。「一夜の後たぎりたる脳の漸く平らぎて、静かなる昔の影のちらちらと心に映る頃、ランスロットはわれに去れという。心許さぬ隠士は去るなと・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・「じゃ、もっと早くどしどしかたづけるが好いじゃないか、いつまでたってもぐずぐずで、はたから見ると、いかにも煮え切らないよ」 重吉は小さな声でそうかなと言って、しばらく休んでいたが、やがて元の調子に戻って、こう聞いた。「だってもら・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・酒のない猪口が幾たび飲まれるものでもなく、食いたくもない下物をむしッたり、煮えつく楽鍋に杯泉の水を加したり、三つ葉を挾んで見たり、いろいろに自分を持ち扱いながら、吉里がこちらを見ておらぬ隙を覘ッては、眼を放し得なかッたのである。隙を見損なッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・感情上から云っても同じく解らん……つまる所、こんな煮え切らぬ感情があるから、苦しい境涯に居たのは事実だ。が、これは「厭世」と名くべきものじゃ無かろうと思う。 其時の苦悶の一端を話そうか。――当時、最も博く読まれた基督教の一雑誌があった。・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・その村の年よりたち、牛や馬、犬、子供たち、ばかの乞食、気味のわるい半分乞食のようなばあさん、それらの人々の生活は、山々の眺望や雑木林の中に生えるきのことともに、繭が鍋の中で煮えている匂いとともにわたしの少女時代の感覚の中に活々と存在していた・・・ 宮本百合子 「作者の言葉(『貧しき人々の群』)」
・・・ 又もう一方の場合では、只さえ、今の煮え切らない箇性の乏しい、我国の女性に同情はしながらも、その解放の為に叫びながらも、衷心の不満を押えられないで居る男子が、兎に角、自分というものを持って、ピチピチとはねる小魚のように生きて居るこちらの・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
鍋はぐつぐつ煮える。 牛肉の紅は男のすばしこい箸で反される。白くなった方が上になる。 斜に薄く切られた、ざくと云う名の葱は、白い処が段々に黄いろくなって、褐色の汁の中へ沈む。 箸のすばしこい男は、三十前後であろ・・・ 森鴎外 「牛鍋」
・・・「茄子に隠元豆が煮えておりまするが。」「それで好い。」「鳥は。」「鳥は生かして置け。」「はい。」 婆あさんは腹の中で、相変らず吝嗇な人だと思った。この婆あさんの観察した処では、石田に二つの性質がある。一つは吝嗇である・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫