・・・すると彼はにこりともせず、きわめてむぞうさにこう言うのだった。「なに、あの信号は始終でしたよ。それは号外にも出ていたのは日本海海戦の時だけですが」 三八 柔術 僕は中学で柔術を習った。それからまた浜町河岸の大竹と・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・省作は玉から連想して、おとよさんの事を思い出し、穏やかな顔に、にこりと笑みを動かした。「あるある、一人ある。おとよさんが一人ある」 省作はこうひとり言にいって、竜の髭の玉を三つ四つ手に採った。手のひらに載せてみて、しみじみとその美し・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 女はにこりともせずにそう言うと、ぎろりと眇眼をあげて穴のあくほど私を見凝めた。 私は女より一足先に宿に帰り、湯殿へ行った。すると、いつの間に帰っていたのか、隣室の男がさきに湯殿にはいっていた。 ごろりとタイルの上に仰向けに寝そ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・「維康いう人は沢山いたはります」にこりともせず言った。「維康柳吉や」もう蝶子の折檻を観念しているようだった。「維康柳吉という人はここには用のない人だす。今ごろどこぞで散財していやはりまっしゃろ」となおも苛めにかかったが、近所の体裁もあったか・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 男はひとりごとのように、にこりともせず言った。 その洒落がわからず、器用に煙草の輪を吹き出すことで、虚勢を張っていると、「――君はいくつや」 と、きかれた。「十八や。十八で煙草吸うたらいかんのか」 先廻りして食って・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・そこへ行ったら佐吉さんと、もう一人江島という青年が、にこりともせず大不機嫌で酒を飲んで居ました。江島さんとはその前にも二三度遊んだことがありましたが、佐吉さんと同じで、お金持の家に育ち、それが不平で、何もせずに、ただ世を怒ってばかりいる青年・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・が新潮社から出版せられて、私はその頃もう高等学校にはいっていたろうか、何でも夏休みで、私は故郷の生家でそれを読み、また、その短篇集の巻頭の著者近影に依って、井伏さんの渋くてこわくて、にこりともしない風貌にはじめて接し、やはり私のかねて思いは・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・私は、にこりともせずに応じた。「私も、いまは落ちぶれました」「とんでもない」お巡りは、なおも楽しげに笑いながら、「小説をお書きなさるんだったら、それはなかなか出世です」 私は苦笑した。「ところで」とお巡りは少し声をひくめ、「お慶・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・宿の番頭は、妙な顔をしてにこりともせず、下駄をつっかけて出て行った。 私は部屋で先生と黙って酒をくみかわしていた。あまりの緊張にお互い不機嫌になり、そっぽを向きたいような気持で、黙ってただお酒ばかり飲んでいたのである。襖があいて実直そう・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・ 小坂氏は部屋へあがって、汚い畳にぴたりと両手をつき、にこりともせず、厳粛な挨拶をした。「大隅君から、こんな電報がまいりましてね、」私は、いまは、もう、なんでもぶちまけて相談するより他は無いと思った。「○オクッタとありますが、この○・・・ 太宰治 「佳日」
出典:青空文庫