・・・狐の女中は、にこりともせず、あれは近所のお百姓の娘さんで毎日あそこで宿の浴衣や蒲団を繕っているのです、いいひとが出征したので此頃さびしそうですね、と感動の無い口調で言って、私の顔をまっすぐに見つめて、こんどは、あの人に眼をつけたのですか、と・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・墓の掃除などして、大学の卒業証書は金色の額縁にいれて母の寝間の壁に飾り、まことにこれ父母に孝、兄弟には友ならず、朋友は相信ぜず、お役所に勤めても、ただもうわが身分の大過無きを期し、ひとを憎まず愛さず、にこりともせず、ひたすら公平、紳士の亀鑑・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・女中さんは、にこりともせず、やはり、まじめな顔をしている。もとからちゃんとしたまじめな女中さんだったし、まさか、私をからかっているのでもなかろう。「さあ、」私も、まじめに考えないわけにいかなくなった。「無いこともないだろうけど、僕なんか・・・ 太宰治 「鴎」
・・・木の根に躓いて顛倒しそうになっても、にこりともせず、そのまま、つんのめるような姿勢のままで、走りつづけた。いつもは、こんな草原は、蛇がいそうな故を以て、絶対に避けて通ることにしているのであるが、いまは蛇に食い附かれたって構わぬ、どうせ直ぐに・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ しかし、固パンはにこりともせず、「そりゃ、そう言ってもかまわないと思います。もっとも、いまの自由主義者というのは、タイプが少し違っているようですが、フランスの十七世紀のリベルタンってやつは、まあたいていそんなものだったのです。花川・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・何か、私あての郵便が来たのだろうと思って、にこりともせず、だまって郵便屋へ手を差し出した。「いいえ、きょうは、郵便来ていません。」そう言って微笑む郵便屋の鼻の先には、雨のしずくが光っていた。二十二、三の頬の赤い青年である。可愛い顔をして・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・ にこりともせず、まじめに講義したい気持ちは、ある。けれども、多少、てれる、この感触は、いつわることができない。ゲシュタルト心理学や、全体主義哲学に就いて、知っているところだけでも講義しなければならなかった。これだけでは、読者、なんのこ・・・ 太宰治 「多頭蛇哲学」
・・・着で一つも信頼の出来ぬ事、詩なんかではとても生活して行かれぬから、亭主をこれから鉄道に勤めさせようと思っている事、悪い詩の友だちがついているから亭主はこのままでは、ならず者になるばかりだろうという事、にこりともせず乱れた髪を掻きあげ掻きあげ・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・帳場の叔父さんの真面目くさった文字で、歌舞の部、誰、誰、と五人の芸者の名前が書き並べられて、謝礼いくら、いくらと、にこりともせず計算されていた。私は五人の名前を見て、一ばんおしまいから数えて二人めの、浪、というのが、それだと思った。それにち・・・ 太宰治 「デカダン抗議」
・・・女将は、笠井さんを見覚えていない様子であった。「お願いします。」笠井さんは、気弱くあいそ笑いして、軽くお辞儀をした。「二十八番へ。」女将は、にこりともせず、そう小声で、女中に命じた。「はい。」小さい、十五、六の女中が立ち上った。・・・ 太宰治 「八十八夜」
出典:青空文庫