・・・「何、滅多にゃいないんだ。」 僕等は四人とも笑い出した。そこへ向うからながらみ取りが二人、(ながらみと言うのは螺魚籃をぶら下げて歩いて来た。彼等は二人とも赤褌をしめた、筋骨の逞しい男だった。が、潮に濡れ光った姿はもの哀れと言うよりも・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・今日中にゃまさか届くでしょう。」「そうだねえ。何も京大阪と云うんじゃあるまいし、――」 地理に通じない叔母の返事は、心細いくらい曖昧だった。それが何故か唐突と、洋一の内に潜んでいたある不安を呼び醒ました。兄は帰って来るだろうか?――・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・人と生まれた以上、こういう娑婆にいればいやでも嘘をせにゃならんのは人間の約束事なのだ。嘘の中でもできるだけ嘘をせんようにと心がけるのが徳というものなのだ。それともお前は俺しの眼の前に嘘をせんでいい世の中を作ってみせてくれるか。そしたら俺しも・・・ 有島武郎 「親子」
・・・偶にゃ少し位荒っぽく働いたって、そりゃ仕方が無えや、そうでしょう」てってやると、旦那の野郎が真赤になって怒り出しやがった。もう口じゃまどろっこしい、眼の廻る様な奴を鼻梁にがんとくれて逃んだのよ。何もさ、そう怒るがものは無えんだ。巡的だってあ・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・あれだけでも僕みたいな者にゃ一種の重荷だよ。それよりは何処でも構わず腹の空いた時に飛び込んで、自分の好きな物を食った方が可じゃないか。何でも好きなものが食えるんだからなあ。初めの間は腹のへって来るのが楽みで、一日に五回ずつ食ってやった。出掛・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・そう何年も続けて夢を見ていた日にゃ、火星の芝居が初まらぬうちに、俺の方が腹を減らして目出度大団円になるじゃないか、俺だって青い壁の涯まで見たかったんだが、そのうちに目が覚めたから夢も覚めたんだ』・・・ 石川啄木 「火星の芝居」
・・・――うんにゃ飲みなよ。大金のかかった身体だ。」 と大爺は大王のごとく、真正面の框に上胡坐になって、ぎろぎろと膚をみまわす。 とその中を、すらりと抜けて、褄も包ましいが、ちらちらと小刻に、土手へ出て、巨石の其方の隅に、松の根に立った娘・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・「そりゃ知らないもののない人かも知れんがね、よそから来た私にゃ、名を聞かなくっちゃ分らんじゃないか、どなただよ。」 と眉を顰める。「そんな顔をなすったってようございます。ちっとも恐くはありませんわ。今にすぐにニヤニヤとお笑いなさ・・・ 泉鏡花 「縁結び」
・・・姉はお祖母さんは稲を刈らない人だから、裁決の数にゃ入れられないという。各受け持ちの仕事は少しも手をゆるめないで働きながらの話に笑い興じて、にぎやかなうちに仕事は着々進行してゆく。省作が四挺の鎌をとぎ上げたころに籾干しも段落がついた。おはまは・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・一歩踏み出せば、もう、直ぐ敵弾の餌食は覚悟せにゃならん。聨隊長はこの進軍に反対であったんやけど、止むを得ん上官の意志であったんやさかい、まア、半分焼けを起して進んで来たんや。全滅は覚悟であった。目的はピー砲台じゃ、その他の命令は出さんから、・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
出典:青空文庫