一 善ニョムさんは、息子達夫婦が、肥料を馬の背につけて野良へ出ていってしまう間、尻骨の痛い寝床の中で、眼を瞑って我慢していた。「じゃとっさん、夕方になったら馬ハミだけこさいといてくんなさろ、無理しておきたら・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・長火鉢の傍にしょんぼりと坐って汚れた壁の上にその影を映させつつ、物静に男の着物を縫っている時、あるいはまた夜の寝床に先ず男を寝かした後、その身は静に男の羽織着物を畳んで角帯をその上に載せ、枕頭の煙草盆の火をしらべ、行燈の燈心を少しく引込め、・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・右に折れると兄の住居、左を突き当れば今宵の客の寝所である。夢の如くなよやかなる女の姿は、地を踏まざるに歩めるか、影よりも静かにランスロットの室の前にとまる。――ランスロットの夢は成らず。 聞くならくアーサー大王のギニヴィアを娶らんとして・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 自分の室はもと特等として二間つづきに作られたのを病院の都合で一つずつに分けたものだから、火鉢などの置いてある副室の方は、普通の壁が隣の境になっているが、寝床の敷いてある六畳の方になると、東側に六尺の袋戸棚があって、その傍が芭蕉布の襖で・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・そして間もなく雪に全身を包まれて、外の寝所を捜しに往く。深い雪を踏む、静かなさぐり足が、足音は立てない。破れた靴の綻びからは、雪が染み込む。 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・ 私共は、彼の為にみかん箱の寝所を拵え、フランネルのくすんだ水色で背被いも作ってやった。 彼は、今玄関の隅で眠り、時々太い滑稽な鼾を立てて居る。 女中が犬ぎらいなので少し私共は気がねだ。又、子のない夫婦らしい偏愛を示すかと、自ら・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・私は並べて敷かれている自分の寝床の方から稲子さんのお乳をしぼっているところまで出かけてゆき、プロレタリア作家としての女の生活を様々の強い、新鮮な感情をもって考えながら、やっぱり一種心配気な顔つきで稲子さんのお乳をしぼる様子を謹んでわきから眺・・・ 宮本百合子 「窪川稲子のこと」
・・・それを親たちの寝所になっていた六畳の張出し窓のところへ据えて、頻りに私が毛筆で書き出したのは、一篇の長篇小説であった。題はついていたのか、いなかったのか、なかみを書く紙は大人の知らない間にどこからか見つけ出して来て白い妙にツルツルした西洋紙・・・ 宮本百合子 「行方不明の処女作」
・・・兎に角拳銃が寝床に置いてあったのを、持って来れば好かったと思ったが、好奇心がそれを取りに帰る程の余裕を与えないし、それを取りに帰ったら、一しょにいる人が目を醒ますだろうと思って諦念めたそうだ。磚は造做もなく除けてしまった。窓へ手を掛けて押す・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・そして、彼は自分の寝床へ帰って来ると憂鬱に蝋燭の火を吹き消した。 四 彼は自分の疲れを慰めるために、彼の眼に触れる空間の存在物を尽く美しく見ようと努力し始めた。それは彼の感情のなくなった虚無の空間へ打ち建てらるべ・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫