・・・この東京名所の増上寺山門の前に、ばかな叔父が、のっそり立っているさまを、叔父とも知らず無心に眺めて通ったのかも知れない等と思った。二十台ほど、絶えては続き山門の前を通り、バスの女車掌がその度毎に、ちょうど私を指さして何か説明をはじめるのであ・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・蜀黍の垣根の側に手拭を頬かぶりにした容子の悪い男がのっそりと立って居る。それは犬殺しで帯へ挿した棍棒を今抜こうとする瞬間であった。人なつこい犬は投げられた煎餅に尾を振りながら犬殺しの足もとに近づいて居たのである。犬殺しは太十の姿を見て一足す・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 圭さんは、のっそりと踵をめぐらした。碌さんは黙然として尾いて行く。空にあるものは、煙りと、雨と、風と雲である。地にあるものは青い薄と、女郎花と、所々にわびしく交る桔梗のみである。二人は煢々として無人の境を行く。 薄の高さは、腰を没・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・すると店にはうすぐろいとのさまがえるが、のっそりとすわって退くつそうにひとりでべろべろ舌を出して遊んでいましたが、みんなの来たのを見て途方もないいい声で云いました。「へい、いらっしゃい。みなさん。一寸おやすみなさい。」「なんですか。・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・ そして馬がすぐ目の前にのっそりと立っていたのです。その目は嘉助を恐れて横のほうを向いていました。 嘉助ははね上がって馬の名札を押えました。そのうしろから三郎がまるで色のなくなったくちびるをきっと結んでこっちへ出てきました。 嘉・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・と云って向うに立ちあがりましたので平二はぶつぶつ云いながら又のっそりと向うへ行ってしまいました。 その芝原へ杉を植えることを嘲笑ったものは決して平二だけではありませんでした。あんな処に杉など育つものでもない、底は硬い粘土なんだ、やっぱり・・・ 宮沢賢治 「虔十公園林」
・・・彼は、しばらく私どもの方を、意味のない眼つきで眺め、また、のっそり、弁当の売れゆきを見物し始めた。広々とした七月の空、数間彼方の草原に岬のように突出ている断崖、すべて明快で、呑気な赤帽の存在とともに、異国的風趣さえあった。 鎌倉は、・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・そして、月給日など「裏町の小路をのっそりと歩いたり、なんかガスのように下方をはい流れているうつらうつらとして陰惨な楽しみに酔う自身の姿に気がついて、なるほど世に繁茂する思想の生え上った根もとはここなのかと、はっと瞬間目醒めるように眼前の空間・・・ 宮本百合子 「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」
・・・さも悪者らしく、巻煙草の横くわえで、のっそりのっそり両手をパンツの衣嚢に肩をそびやかして横行するところから、あの両肱をぐいと持ち上げる憎さげなシュラッギングまで。堪らず私を笑わせたのは、そんな悪漢まがいの風体をしながら、肩つきにしろ、体つき・・・ 宮本百合子 「茶色っぽい町」
・・・みのえは、のっそり立ち上り、小僧を睨みつけると、物も云わず片手にキラキラ閃くものを振り翳し小僧に躍りかかった。 気がついた時、みのえは元よりずっと草原の上の方に跳ねとばされていた。四五間下の方に、小僧も倒れた。彼等は互に睨み合いながら、・・・ 宮本百合子 「未開な風景」
出典:青空文庫