・・・騎るわれは鬣をさかに扱いて前にのめる。戞と打つは石の上と心得しに、われより先に斃れたる人の鎧の袖なり」「あぶない!」と老人は眼の前の事の如くに叫ぶ。「あぶなきはわが上ならず。われより先に倒れたるランスロットの事なり……」「倒れた・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ どうして飲めるんだい!」 が、フト彼は丼の中にある小箱の事を思い出した。彼は箱についてるセメントを、ズボンの尻でこすった。 箱には何にも書いてなかった。そのくせ、頑丈に釘づけしてあった。「思わせ振りしやがらあ、釘づけなんぞにし・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・「上ッたか、下ッたか、何だか、ちッとも、知らないけれども、平右衛門の台辞じゃアないが、酒でもちッと進らずば……。ほほ、ほほ、ほほほほほほほ」「飲めるのなら、いくらだッて飲んでおくれよ。久しぶりで来ておくれだッたんだから、本統に飲んで・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・「牛乳だといくらでも飲めるから、きのうは牛乳二合ばかり、今日は葛湯も少したべた」 まさ子は、大儀そうに小さい声で、「ああ、ああ」と云い、先ず肱をおろし、肩をつけ、横たわった。 千世子が下で、疲れるんだって、と云った時、微・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・ 俄車掌は、動揺のためのめるまいと長い両脛でうんと踏張り、自分の尖った鼻を腰かけている相手の帽子の下へ突っこみそうに背をかがめ、間のびのした形で腰にぶら下っている鞄の中から釣銭をさがし出す。よほど緊張していると見え、その車掌は客に切符を・・・ 宮本百合子 「電車の見えない電車通り」
・・・あんなに静かに流れ、手ですくっておいしく飲めるその水が、天からどうどうと降りそそげば、彼等の穴ぐらは時々くずれたり狩に行けないために飢えなければならない時さえあった。未開な暗さのあらゆる隅々に溢れる自然の創造力の豊かさを驚き崇拝した原始の人・・・ 宮本百合子 「人間の結婚」
出典:青空文庫